2010年10月11日(月)後編
▶ 農業とは、安全な食べものを生産すること ―食べものはいのち(生命)― 農協活動は1965年(昭和40年)から北竜町農協青年部理事、監事、副部長、部長と就任し積極的な青年部活動を展開していきました。 1973年(昭和48年)、34歳で農協理事に就任して以来、2000年(平成12年)2月の広域合併に至るまでの27年間、北竜町農協の仕事に心血を注ぐ人生を過ごされたのです。 黄倉さんは、偉大な人々との出会いによって、農業に対する想いを確立されていきました。 当時、北海道の自然農法の先達・佐藤晃明さんの田んぼ(当別町)に勉強に行ったとき、畦を歩きながら問われた御言葉です。 「黄倉さん、農業って何だかわかりますか?」 中学生のときから20年間、ただひたすら一生懸命、借金を返すためにやってきた農業を、言葉に表すことができず、答えることができなかった黄倉さん。 「農業って、安全な食べものを生産することなんですよ」 佐藤晃明さんのこの言葉は、黄倉さんにとって、青天霹靂であり、農業に対する考え方を根本から変えました。 さらに、黄倉良二さんの人生に大きな影響を与えた人物である、5代目組合長・後藤三男八(ごうとうみおはち)氏。1955年(昭和30年)から、6期18年間、組合長を務められました。 後藤三男八さんが退任される前年の1972年(昭和47年)11月2日。当時34歳の黄倉さんは、農協の理事に推されていました。後藤さんから、部屋に呼ばれて、伝えられたことは、 「私は来年辞める。まだ若いおまえは、農協理事の器とはいえない。不満だが、なることに反対はしない。後を頼む。ただし、言っておく事がある。」 「お金が貯まったら、まず本を買え」 「これからの時代、やがて食べ物がなくなる。そのことを考えて、自らの農業で実践し、農協の事業計画を作れ」 「『地位と名誉と金』を求めるな。農協の役員をやっていると、やがてこのことに遭遇する時が訪れる。その時に毅然と対処できるようにしておけ」 「自分に対する世の中の評価は、組合長を辞めてから10年後に表れる。農協とは、役員のものではない、職員のものでもない、それは組合員のものである。必ずそこに立ち返れ。何か問題が起きて迷った時、どうすることが組合員の為になるかを考えよ。そこで出た答えに従え」 まさに、こうした後藤三男八さんの想いが、黄倉さんのその後の人生を方向づける礎となりました。 天と地と水 そして農民の心 ▶ 組合員のための農協 黄倉さんは、1973年(昭和48年)、後藤亨氏(後藤三男八氏御子息)とともに「自然農法米(化学肥料や農業防除をしない米づくり)」に取り組み始めます。 この米づくりは、公害問題が厳しくなってきた15年後の1988年(昭和63年)6月に開催された農民集会で、農協青年部の「国民の命と健康を守る食糧生産」の宣言として認められ、北竜町に着実に浸透していきました。こうして、町をあげての安全・安心な食糧生産であるクリーン農業への取り組みがスタートしていったのです。 1993年(平成5年)戦後最悪の大冷害。1995年(平成7年)食糧管理法が53年ぶりに廃止。水田面積増加、栽培技術の向上による米出荷量の増加等に合わせ、保管米の良質な味を維持するための農業倉庫の新築が求められるようになりました。 将来に向けての農協広域合併をも考慮に入れ、米を保管・管理する低温倉庫建設への取り組みもすすめられていきました。一番の課題は、合併までに米が15万俵入る低温倉庫2棟の建設でした。 当時、農協の資金繰りは苦しく、倉庫建設のために、組合員にさらなる負担を強いることはできません。「しかし、どうしても合併に向けて、低温倉庫の建築は必要である」と黄倉組合長は悩みました。 そこで、建設費を今までの半額にする方針で、従来とは異なる方法で、競争入札を実施したのです。半額で落札できる訳がない、などの非難を受けながら、最終的に、いままでの半分近い建設費用で、低温倉庫を建設することができました。組合員のために何ができるか、その想いが建設を可能にしたといえます。 また、農協職員の意識改革にも取り組みました。当時の農協の貯貸率(※)は高く、組合員からの返済利息が、収入の一定部分を構成していました。(※ ちょたいりつ:貯金残高に対する貸出金の割合を表した数値のこと) 黄倉組合長は、職員に「皆さんの給料の原資は、組合員の利息で成り立っているという現状を認識してください」と説いたのです。「食べものはいのち(生命)」「農協とは『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育む組織」、そして「農協は、組合員のためにある」ことを毎日繰り返し、職員に伝え続けました。さらに、貯貸率60%を目指して、事業利益が上がる組織形態・事業に取り組んだのです。 2000年(平成12年)、北竜町農協は、8つの農業協同組合の広域合併によって、北竜町農業協同組合から、きたそらち農業協同組合(JAきたそらち)北竜支所へと変わりました。対等合併でした。 黄倉さんは、合併時にJAきたそらち代表理事専務に就任。2002年(平成14年)から2007年まで、代表理事組合長に就任されました。 ▶ 低農薬栽培に全町挙げて取り組む。―日本初「生産情報表示農産物JAS規格」をお米で取得― 1997年(平成9年)に、有機JAS法の有機農産物及び特別栽培農産物に関わる表示ガイドラインに「麦」「米」が追加されました。こうした時代の変化に合わせ、北竜町全戸による、低農薬栽培米への取り組みも大きく進歩していきました。 2005年(平成17年)6月、生産情報表示JAS規格が、すべての農産物に適用拡大されました。 北竜町は、全町あげて栽培協定を策定。これに基づき、ひまわりライス生産組合では使用農薬を統一し、低農薬栽培(※)への取り組みを開始。(※ 慣行栽培基準の5割減:北海道の農家が使用している農薬成分の平均22成分を11成分に半減) さらに、2007年(平成19年)に、トレーサビリティー(生産・流通履歴を追跡する仕組み)を認証する「生産情報公表農産物JAS規格」を取得し、WEB上での情報公開を開始しました。 米の栽培で、200戸近い農家が所属する生産組合が「生産情報公表農産物JAS規格」を取得したのは、日本で初めてのことです。また、現時点でも同条件で取得している組織は、北竜町ひまわり生産組合、唯ひとつです。 北竜町では、生産者のひとりひとりが「食べものはいのち(生命)」の心を、消費者へ伝える農業がずっと続けられています。これは、たくさんの先人方の魂が、今に伝えられ、守られているからこそ成し得ることだと感じます。 ▶ 百姓をしてきて、本当によかった 現在、黄倉良二さんは「北海道の有機農業をすすめる会(麻田信二代表)」の顧問を勤められています。 「食べものはいのち(生命)」の魂を伝えるために、自ら農業を続けながら、日本中を駆け巡っていらっしゃいます。 「日本の農業は、水を守り、誇りうる土を伝承しながら安心・安全なたべものをつくっていく。いのち(生命)を守り、世代を超えて農民の魂を磨き、伝えていく。いままでずっとやってきた農業。そしてこれからもやり続ける農業。 この農業を続けられるのは、妻がいつも一緒にやってきてくれたお陰です。そして、今は、息子夫婦が有機農業をやり続けています。ありがたいことです。 百姓をしてきて、本当によかった。 いのちを守っていける農業ほど幸せな仕事はないよね」 菩薩様のように穏やかな笑顔で語る黄倉良二さんは、高貴な光で輝いていました。 「百姓をして、本当に良かった」と語る 黄倉良二さん(72歳) 「天と地と水 そして農民の心」
天の恵み、誇れる大地、清らかな水、
いのちを育み、守り続ける農民の魂。。。
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