「食べものはいのち(生命)」黄倉良二さん 農業の心を語る(前編)

2011/04/21 0:15 に 寺内昇 が投稿   [ 2017/01/31 16:48 に更新しました ]
2010年10月11日(月)前編

< 前編 >
農協は「いのち(生命)・食糧・環境・暮らし」を守り育む組織
青年時代の貧困を支えた町の人々の温かい思いやり

< 後編 >
農業とは、安全な食べものを生産すること
 ― 食べものはいのち(生命)―
組合員のための農協
低農薬栽培に全町挙げて取り組む
 ― 日本初「生産情報表示農産物JAS規格」をお米で取得―
百姓をしてきて、本当によかった


私達は、今年の3月末、ここ北竜町に居を移しました。自然の素晴らしさ、清らかな美味しい水、町民の皆さんの温かな真心に触れ、感動の日々を過ごしています。

そして、何より「ひまわりライス」「ひまわりすいか」「ひまわりメロン」「ひまわりの花」「黒千石大豆」など、北竜町の肥沃な大地で命が芽生え、いのち(生命)が育み成長していく様子を6か月もの間、見ることができたのは幸せでした。そのひとつひとつが感動の連続です。

ここ北竜町では、そこに息づく様々ないのち(生命)が大切に守られ育まれている、力強いパワーを感じます。町民全体が手をつなぎ合い、協力しあう大きなエネルギーの源になっているように思います。

なぜ、この町に、このようなパワーが生みだされているのでしょうか? こうして、「いのち(生命)を守り育む魂のルーツ」を探す私達の旅は始まりました。


「天と地と水 そして農民のこころ」
「天と地と水 そして農民のこころ」書道の大家・島田無響氏の書
写真の左から:後藤三男八氏(5代組合長)、北政清氏(初代組合長)、
加地彦太郎氏の胸像


農協は『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育む組織

今回、北竜町農業協同組合8代組合長、及び前JAきたそらち(きたそらち農業協同組合)代表理事組合長・黄倉良二(おうくらりょうじ)さんのお話をお伺いする機会が、幸いにも与えられました。

お話をお伺いした場所は、JAきたそらち北竜支所事務所。事務所2階の階段を登った正面には「天と地と水  そして農民の心」と記される、北海道を代表する書道の大家でもある島田無響(しまだむきょう)氏の書。そこに描かれた文字に魂が存在するような躍動感を感じさせる素晴らしい書です。

北政清氏(初代組合長)、後藤三男八氏(5代組合長)、加地彦太郎氏の胸像。それら三氏の胸像は、農業の昭和史を飾るに相応しい先駆者たちの輝きを放っています。

黄倉さんは、1991年(平成3年)から農協代表理事組合長を3期9年間勤められました。毎朝、初代組合長・北政清氏を先頭に並べられた写真に手を合わせ、感謝しあいさつすることから、組合長の一日がはじまります。


北竜町農業協同組合、歴代組合長の写真
北竜町農業協同組合、歴代組合長の写真


組合長でありながら「良ちゃん」と呼ばれ親しまれた黄倉組合長。農作業の迷惑にならないようにと、早朝5時前から農家を回り、組合員に声をかけ、耳を傾ける毎日でした。

まず「組織、団体を理解する上で大切なことは、社訓、組織訓を知ることである」と力強く、黄倉さんは語られました。

「農協訓は『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育むことです。農協は、先人が脈々と築き上げてきたものを受け継ぎ、この4つのことに取り組み、ずっと守り続けてきました。

人間にとって一番大切なものは、いのち(生命)。

いのち(生命)は食べもので育まれます。食べものは、ものであってはいけない。食べものは、いのち(生命)なのです。どんなに背景が変化しようと守り抜いてきたもの。

そして、先人が厳冬に耐え開墾し、耕し、守り抜いてきた大地。

さらに、地域社会の環境を守っているもの、それは水。

木が朽ちて、葉が落ち、岩や土の肥やしとなる。暑寒別連峰に降り積もった雪が、ひと雫ひと雫流れ込んでできる、生きたミネラルを含んだ水。その水が、岩や土を通ってダムに流れ込み、田んぼを潤す。その素晴らしい水がこの町には存在します。

土を汚染させ、劣化させては、いい食べものはつくれない。工場もスキー場もゴルフ場もないこの土地で、先人たちは親子伝来、いい土・いい水を、子孫に残す為守り抜いてきたのです。

110年以上、農業を営む先人たちが、築き上げ守り続けてきたこの偉業を、次の世代へと伝えていくことが、私達の役目です」。


貧困を支えた町の人々の温かい思いやり

黄倉良二さんは、1939年(昭和14年)6月1日生まれ。数えで72才です。

中学生時代から農業の手伝いをし、11人家族で過ごした青年時代。3つ上のお兄様は、札幌へ大工・建築の奉公。病弱なお母様を抱え、農協からの大きな借金を背負いながらの、農業一筋の壮絶な農家の暮らし。そこには、町の人々の温かい思いやりがありました。

当時の農業は、馬そりの時代。冬の間、馬にとって、脚気にならないための大切な食べ物が燕麦(えんばく)。
「燕麦3俵買ってこい」と父親に言付かり、お金を持たずに農協へ向かう中学生の良ちゃん。農協職員は荷車に燕麦を積んでくれたものの、現金を持っていないことを知ると、荷車の燕麦を下して「お金がないなら売れないよ」。馬に燕麦を食べさせないと、馬は脚気になって、春からの農業ができなくなってしまう。

隣に住み、そんな様子を見守っていた、正当派の馬喰(ばくろう)さんの杉本清松さんが、石灰(カーバイト)の一斗缶(18リットル缶)を持ってきてくれました。

納屋で、ドラム缶2こほどが埋められる大きさの穴を掘り、藁を詰めて、よく足で踏む。その藁を、カーバイトを溶かしたお湯で浸し、丸一日置いてから馬に食べさせるのです。

こうして作る石灰藁を馬に食べさせると、太らないし、脚気にもならない。馬喰ならではの優れた技。馬喰さんとは、馬の力を最大限に発揮できる人、馬の病を治せる人。この馬喰さんのお陰で、馬に力が与えられ、春には田んぼを耕すことができました。


また、近所に住んでいた盲目のおばあちゃん。このおばあちゃんは、家にいながら、道行く人の足音だけで誰だか解ります。

ある日、おばあちゃんが「良ちゃん、良ちゃん、ちょっとよってけ」と声をかけてくださいました。行ってみるとそこには、当時食べたことのない、お砂糖がまぶされたきな粉餅。遠慮しながら食べると「良ちゃん、うまいか。食べてけ。遠慮せんで、いっぱい食べてや」。。。

生涯忘れる事のできない、おばあちゃんの温かい言葉と甘いきな粉餅の美味しさが、貧しい生活の苦しさを乗り越えていくことのできる大きな力となりました。

可憐な花@道の駅「花夢」(北海道西興部村)


青年時代は、毎日、朝は5時から夜8時まで農作業。その後、走ることが好きな仲間とともに、真っ暗な砂利道10kmをマラソンをして過ごしました。

25歳(1964年・昭和39年)から49歳(1988年・昭和63年)までの24年間、深川地区消防組合北竜消防団第一分団に所属。北竜町体育指導員としてスポーツの指導に貢献。1967年に、町は道内二番目の「スポーツの町」宣言をし、また、自ら「北空知駅伝大会」に連続40回出場。この記録は、黄倉さんお一人が保持していらっしゃいます。

青年時代の苦しい生活を見守り、走ることを応援してくださった北竜高校時代の上田孝先生のお言葉。
「良ちゃんは、貧しいけれど、食べものがあるでしょう。都会では、赤貧の生活で、食べものがなくて苦労している若い人がいっぱいいるよ」
この先生のお言葉は、農業の苦しい生活のなかで、一筋の光となりました。

農業に勤しむ、若き日の黄倉良二さんの写真
農業に勤しむ、若き日の黄倉良二さんの写真"



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