「後藤三男八翁の横顔」黄倉良二

2014/02/12 12:48 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/02/16 14:05 に更新しました ]

(後藤三男八翁:明治三十一年〜平成五年)
黄倉良二 氏
 後藤三男八翁は明治三十一年二月五目、雨竜村で後藤喜代治の三男として出生、男で三人目、兄姉で八人目に生れたので三男八と名付けられた。

 明治四十五年雨竜村尋常高等学校を卒業後三年間家業の農業に従事し、大正四年雨竜郵便局に勤務しその後、大正十年三月北海道庁立空知農業学校卒業後、三笠村農会技術員、新十津川村実業青年学校教諭として六年間打ち込んだ後、大正十四年十一月、北竜村立真竜小学校訓導として勤められていた篠原留さんと、北政情翁の媒酌により結婚した。

 大正十五年十一月北 政情翁の要請を受け、板谷商船株式会社の社員となり、板谷農場産業組合主事として赴任した。
 昭和七年一月専務理事、同十六年板谷農場産業組合と北竜村三和産業組合が対等合併解散、北竜村産業組合の設立に貢献し常務理事となる。

 昭和十九年一月二十三日、北竜村農業会が設立され初代会長に選ばれた。農業会が法定解散し、同二十三年二月、北竜村農業協同組合が設立され初代組合長理事に北 政情翁が選任され、後藤翁は同二十六年理事、同三十年から四十八年三月まで十八年の長きにわたり組合長理事を務められた。

 産業組合、農業会、農協運動を通じ昭和二十二年四月から一期四年間、北海道議会議員を務め、昭和二十六年八月から北海道農業委員会委員として一期、同二十七年七月から二十九年五月まで、北海道指導農業協同組合連合会(中央会の前身)副会長、同三十二年五月から二期六年間、北海道中央会理事となり、同四十一年五月から同理事を務めるなか、同四十五年五月より二年間専務理事となった。

 後藤翁は在任中、「蛙の鳴くところには米をつくれ」「水のあるところには田を造れ」と今日の米を中心とした北竜の基礎を作り、水田の大型化、用水、排水路、農道を整備し、大型機械を導入し、共同利用、共同作業を中心に合理的、かつ効率的農業を営み、労働生産性を向上させる自主経営農家の育成を図る目的で、昭和四十年農業構造改善事業に着手し、私費工事を合め一〇年余で総額九十八億円の大事業の先頭に立って取り組まれた。

 翁は産業組合運動中の昭和六年札幌市の現北大前に北竜村の白米直売店を開設し、北竜の米を一円でも高く販売するために自らリヤカーを引き戸別訪問をした。

 組合長を退任した昭和四十八年四ケ月後に北竜町農協の名誉組合員として推戴され、同五十五年全国農協中央会の特別功労表彰を受けたほか、数多くの表彰を受けられ昭和四十六年十一月北竜町名誉町民第一号に推挙された。
 その三年前の昭和三十三年春の叙勲で、勲五等瑞玉章を受けられた。

 戦前戦後、北海道を代表する農民運動家、後藤三男八翁は昭和五十五年六月十九日、八十二歳の生涯を閉じられた。同六月二十一日農村環境改善センターで、北竜町と北竜町農業協同組合との合同葬儀が行われた。

 昭和六十一年名誉組合員要領に基づき、長年にわたる功績をたたえて胸像を制作し、新事務所に於いて除幕式を挙行し、平成六年、田中保氏(故人)の渾身の筆による「後藤三男八伝」を北竜町農協が刊行した。


 ・参考文献
 『後藤三男八伝』田中保著 書
 『農業保全型環境への挑戦』黄倉良二 書


北竜町民「横倉良二(おおくらりょうじ)さん」