2026年4月1日(水)
「北竜町の魂を語り継ぐ会」開催
北海道・北竜町。人口約1,600人のこの小さな町が、年間27万人を超える人々を世界140か国から引き寄せてきた背景には、ひまわりという景色だけではなく、この土地に生きた人々の揺るぎない魂があります。
2026年3月27日(金)、サンフラワーパーク北竜温泉の会議室に8名の方々が集いました。北竜町の歴史を紐解きながら、北竜ならではの大切にしてきた魂を語り継ぐ会。その内容は、北竜町ポータルの特集記事として発信し、町民をはじめ共感できる多くの人々と共有することを目的として開かれました。
開催概要
- 日時:2026年3月27日(金)15:00〜19:00
- 場所:サンフラワーパーク北竜温泉
- 参加者:8名
参加者
- 佐々木康宏 町長(69歳)
- 田中佳樹 教育長(69歳)
- 田中盛亮 氏(89歳)
- 黄倉良二 氏・名誉町民(86歳)
- 佐野豊 氏・名誉町民・前町長(75歳)
- 道下甫 氏(84歳)
- 木村和雄 氏(83歳)北竜町議会議員
- 干場功 氏(87歳)若年認知症家族会・彩星の会(東京都)顧問
- 司会進行:北竜町ポータル・寺内昇(副司会:北竜町ポータル・寺内郁子)

はじめに ─ 町長・教育長のごあいさつ
佐々木康宏 町長
「今日いろんなお話を、また教育として残していただいて、それを若い人たちに映像で見てもらうか、冊子にして見てもらうかね、そういう形で残していきたいと思っています」。
町長は、50代・40代・30代の若い町民たちが「北竜の光り輝く宝物」をもう一度思い出してくれるための会にしたいと語りました。「今日は本当に北竜町の魂を語り継ぐ会ということで、第1回目ですから、これがどういう形で続いていくかというのはとても楽しみなので、またよろしくお願いします」。
黄倉良二さんが人選をし、寺内昇が準備・司会を実行。そのご縁と熱意への感謝が、佐々木町長の穏やかな言葉とともにあふれていました。
田中佳樹 教育長
「50年ぶりに北竜町に戻ってきたということなんですけど、私の人生のやっぱり本当に基本になっているもの、土台になっているものは、北竜町に全て詰まっています。
『お前人生語れ』って言われたら、きっとほとんどスポーツのことを語るだろうと私は思うんですが、そのスポーツも、一番の土台になっているのは、今日こちらにいらっしゃる皆さんの姿を見ていた小さい時に、自分はこんな大人になりたい、こんな若者になりたいっという憧れみたいなものです。本当にそれがやっぱりずっと自分の人生の根っこにあることを感じています」。
50年の時を経て教育長として北竜に戻ってきた田中佳樹氏。野球・ラグビー・陸上と様々なスポーツを経験し、空知陸上で100mは「ほとんど負けなかった」という輝かしい競技歴の背景に、北竜で見続けた先輩たちの姿があると語りました。「まさに魂を与えていただいた町だなというふうに思っています」という言葉に、会場の全員が深くうなずきました。
第1部 座談会 ─ 北竜町の魂を語る
6名の方々が約10分ずつのスピーチを行い、その後1時間のフリートークで深め合いました。
① 田中盛亮 氏:北竜町とスポーツ
田中盛亮氏は昭和36年(1961年)に北竜町青年団の団長になりました。当時は町内に200人以上の団員がいたといいます。農業がすべて手作業だった時代、田おこし・田植え・草取り・稲刈りをすべて手でこなす農家の子どもたちが全員青年団に入っていた。そういう時代でした。
団長になった最初の北空知の会合で「昨年度の経過報告を黙って伺っておりますと、北竜という名前が一つも出てきませんでした。悔しくて帰ってきて、非常に悔しいと。なんとかせないかん」と語りました。黄倉さんと相談し、学校の先生方に指導をお願いしてスポーツを強化。やがて剣道・柔道・相撲・卓球・陸上すべてで北竜がリードを取るようになり、北空知で北竜の名前が呼ばれるようになりました。
「北竜がスポーツで強くなった頃、黄倉さんを中心に『スポーツの町を宣言しよう』ということになりました。昭和42年(1967年)、苫小牧に次いで全道2番目にスポーツの町を宣言!そして北海道スポーツ賞をいただき、ずっとその心がつながってきているんだと思います」。
田中氏は続けて、戦後間もない昭和23年(1948年)の忘れられない物語を語りました。
昭和22年に第1回国民体育大会が始まり、第2回大会で岩井忠作さんが自転車競技の北海道代表として国体に参加。「みんなそれに刺激されて、岩井の忠作さんが去年行ったんだって。正野の父さんをはじめ5、6人の若い者が自転車に憧れて練習が始まったんです。合い言葉に岩井忠作さん以上になったら国体に行けるんだよ」。そこに田中氏の叔父・田中正造さんもいました。
農業の合間、稲刈りの最中も、朝早くから放流橋まで走って練習を積み重ねた田中正造さんは、第3回国体・北海道代表18人の中に選ばれました。ところが村長は「こんな貧乏な村にそんな余裕はない」と援助を断りました。先輩の田川三次さんが村長と掛け合いましたが喧嘩別れになり、青年団が素人演芸会を開いて旅費を集め、2人の若者を送り出しました。受け取った2人は「こんなにしてもらったんだから頑張らなければ」と奮い立ちました。ほとんどの選手がノンプロで一日中練習できる中、農業の合間の練習しかできない田中正造さんは、予選・準決勝を2位で勝ち上がり、決勝こそ6位でしたが天皇杯得点1点を挙げました。
「貧乏な町を何としてもちゃんと守らないかんという村長さんの人間性もあったし、ちょっと社会音痴なところもあって、いろんなものをその時から私自身小さかったけど教わったことが思い出されて」。
スポーツの町・北竜の魂は、そんな熱く、貧しく、それでも誰かのために立ち上がった時代から育まれていたのです。
② 黄倉良二 氏・名誉町民:食べものはいのち(生命)
黄倉良二氏の農協の事務所には、一枚の掛け軸が掲げられています。「天と地と水 そして農の心」。農業とは天地自然と人間の心が一体になってこそ成り立つ、この言葉が、黄倉氏の農業哲学のすべてを表しています。
その哲学の根底にあるのは、一人の偉大な先人・後藤三男八翁の教えでした。
「私は後藤三男八翁がすべてですから。後藤さんに昭和47年の11月2日に託されたことは、一つはやがて食べるものがなくなるぞということ。お前は学校へ行っていないから本を読めということ。三つ目に、ある責任を負った時には地位と名誉とお金を求めるなということ。これは何百回も言われたことなんです」。
後藤三男八翁(明治31年・1898〜平成5年・1993)は、北竜農協の組合長として18年間務め、「蛙の鳴くところには米をつくれ」「水のあるところには田を造れ」と北竜の水田農業の基礎を築いた、北海道を代表する農民運動家です。在任中、水田の大型化・用水排水路・農道の整備・大型機械の導入・共同利用共同作業を推進し、昭和40年農業構造改善事業に着手、10年余で総額98億円の大事業を完成させました。昭和46年には北竜町名誉町民第一号に推挙されました。
「後藤さんが理事会の前と後に、必ず後藤さんにお邪魔して、こういう問題をやります、こう決めてきました、と報告し続けました。後藤さんは一言もしゃべらない。ただし息子の享さんが、親父が考えていることを解説してくれるわけです。良ちゃん、親父が期待してることはね、一つは米の産地評価をあげれ。農協の債務超過を解消しろ。そして談合は絶対やるなと」。
「やがて食べるものがなくなる」という後藤翁の予言は、昭和47〜48年の第1次オイルショックで現実味を帯びました。余剰米が700万トン近くに達していたその時、
「食べものは何か、どうあるべきかを問われるのは明白で、息子の享さんから『親父の言う意味は、高度な経済成長が続くと農業が後退し、やがて食べものの安全性を問われることを示唆したんだよ』と教えられ、二人で自然農法に取り組むことになりました」
と黄倉氏は語ります。
その年の8月下旬、享さんと当別町で自然農法のMOAの教えを受けた黄倉氏は、田の畔を歩きながら「黄倉さん、農業って何かわかるかい」と問われました。
「私は素早く答えることができませんでした。20年も農業に従事しながら、情けないかな農業とは何かと考えていなかったことになる。佐藤晃明さんは『黄倉さん、農業とはね、人間の安全な食糧を生産することなんだよ。とても難しいことなんだよ』と淡々と語られたのを今も鮮明に覚えており忘れることはない」。
この問いかけが、黄倉氏の農業人生を大きく変えました。化学肥料を使わない、除草剤を使わない、農薬防除を行わない自然農法米の試験田が設けられました。除草機押し・手で膝までの草取り・ハサ掛けと手間をかけての収穫は1アール当たり5俵という厳しい結果でした。
昭和63年(1988年)6月20日、それまで毎年行われていた「米価要求大会」を、全国初の「国民の命と健康を守る安全な食糧を生産する北竜町農民集会」として開催。青年部代表の佐藤稔さんが「安全な食糧生産に関する決議」を提案すると、反対が起きるかと思いきや、80何歳の杉山公男さんが手を挙げ「お前らやってみれ、俺賛成してやろう」と一声。満場の賛成で決議されました。
平成元年(1989年)、期待されて登場した「きらら397」を有機減農薬米として生産した5,000俵が「ひまわりライス」として全道販売され、人気ブランドとなりました。
平成2年(1990年)、農協・農業委員会・土地改良区・北竜町という4つの組織が連携して「国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言の町」を宣言。これは全国で北竜だけの、歴史的な宣言でした。
そして平成29年(2017年)、北竜ひまわりライス生産組合は日本農業賞大賞を受賞。全国93件の応募から集団組織の部で大賞3件のうちの1件、道内唯一の受賞でした。
「農業というのは基本は人間の安全な食糧を生産すること。農協というのは命・食糧・環境・暮らしを守り育むこと。これに尽きるんですよ。北竜には言葉じゃなくて実績がある。どこ行っても胸を張れる。すごいよ」。
35年以上にわたる実践から生まれた、大地の重みのあるお言葉でした。
③ 佐野豊 氏(名誉町民・元町長):役場から見た北竜町
佐野豊氏は名誉町民・元町長として、3期12年間、行政の立場から北竜町の歩みを振り返りました。
「副町長の時代から寺内さんに、本当にどれだけ世話になったか。私がやってきたことをまとめてくれたり、ヒントを与えてくれるような文章を書いてくれたりして、12年間務めたところであります」。
ひまわりや美味しいお米だけでなく、福祉の分野でも北竜町は全国の先駆けでした。若年性認知症を公表した元・一ノ関町長の存在をきっかけに、認知症家族会が立ち上がり、全国からひまわりマラソンに毎年40名近い人々が訪れるようになりました。
コープさっぽろとの連携による行政直営スーパーの開設も、全国でも珍しい取り組みとして注目されました。建築家・隈研吾先生が手がけた保育園、入ったロビー全部にひまわりをあしらった黄色いカーテンのような空間も、北竜ならではのものです。
「北竜の子どもたちの学力が本当に素晴らしかった。国立大学に塾にも行かずに現役で受かったとか、旭川医大に3人入ったとか。田中さんの孫は京都大学、初田さんの孫は東京大学とか、孫の話まで来てる。よそへ行って胸を張れる誇りがありました」。
北竜町の魅力を問われた佐野氏は答えました。
「安全で安心な日本一美味しいお米を生産する町、そして日本一美しいひまわりの里、それが北竜町の魅力だと思っています」。
④ 木村和雄 氏(北竜町議会議員):引揚者の北竜町開拓
木村和雄氏は、一の沢地区の開拓の歴史を、自らの家族の記憶とともに語りました。
木村氏の父は、日本の国策として進められた旧満州国の開拓団の一員として、昭和13年(1938年)に家族を連れて入植しました。
「頑固な努力の結果、数年で住宅の建設と農場の開拓が整い、生活の基盤がようやく整いつつあった。しかし、第2次世界大戦末期の昭和20年8月、突然避難命令が出された」。
ソ連の参戦により、着の身着のままで逃走。「敵の銃撃をくぐり抜けながら、何としても生き延びようとする過酷な状況が数か月続いた」。食糧難・栄養失調・病気で、「母と兄、姉と次々に亡くして、父と姉と自分は生き延びることができた」。
本土への上陸は舞鶴。北海道・滝川・北竜一の沢へと転々と移転し、昭和22年(1947年)の春、ようやく本格的な開拓が始まりました。
「掘立小屋で風雪をしのぎ、春から秋は芋やかぼちゃ、そばの収穫でなんとか食いつなぎ、冬は木材の切り出しで衣食住を備えた。米の飯はほとんど食べられなかった」
一の沢は水場は豊富でしたが、水利権の問題で水田をなかなか作ることができなかった。
「潜りで1反2反と作付けし、水利権の獲得を目指して、村、支庁、道庁へ向けて要請し続けた」。
小学校の入学は北海道に来て4年目。一の沢に来た昭和23年(1948年)の冬、食べものは米・麦・芋・蕎麦の類がほとんど口に入らず、
「白い米の飯はおのれの的。小学3年生まで白い弁当を持っていくことができなかった」。
苦難の末、水田が拡大。昭和33年(1958年)北竜農協設立10周年記念。昭和38年(1963年)水稲大豊作・15万俵突破。昭和49年(1974年)トラクター導入・営農集団設立。昭和52年(1977年)産米21万俵達成。そして平成4年(1992年)1月1日、一の沢は岩村と合併し、新たな一歩を踏み出しました。
木村氏は農業構造改善事業・区画整理・排水整備事業にも長年携わり、北海道農業青年会議の全国大会にも出場。「東京の代木山国立競技場に招待選手(走り幅跳び5m05、砲丸投げ11m29、1,500m4分25秒)として出場し、得点は一点のみ。北海道、木村和雄と示されました」という足跡も残しています。
「色々考えたことを実行することが大切だと思います。今後の事は時間の経過とともに、老いる気まで、自力で出来る自分創りが大切だと思います」北竜の農業の礎を黙々と積み重ねてきた木村氏の言葉は、静かな重みを持っていました。
⑤ 道下甫 氏:美葉牛の開拓
道下甫氏は、美葉牛地区の開拓について語りました。「うちの100年間ですね」と笑いながら語り始めた道下氏。
明治30年(1897年)に石川県金沢市・上野村から17戸が入植し、舞鶴から小樽に船で渡り、沼田の大地主・沼田喜三郎さんの世話になりながら美葉牛の地へと辿り着きました。「うちはこれが何代目になります、五代目と。そして今、孫が6代目で、7代目はって来たんだよね」。
3代・4代と後継者に悩んだ時期もありましたが、「婿さんが来てくれて、もう今は最高の人生です。毎日遊んで、商店行って歩くだけね」という言葉に、会場から笑いが起こりました。その笑いの奥には、先人から受け継いだ土地を7代にわたって次世代に手渡すことができた、深い安堵と喜びがありました。
「生き方というか、遊び方というか、そういうのをみんな教わって、それを習ったのが今の人生であります」土地に根を張ることの意味を、道下氏の言葉は静かに体現していました。
⑥ 干場功 氏:町外から見た北竜町
18歳で北竜町を離れ、60年ぶりに帰郷された干場功氏は、全国若年認知症家族会の代表として長年活動してきた方です。
「私がここに参加していいかどうかもちょっとわかんなかったんですけど」と謙虚に語り始めた干場氏でしたが、その歩みは北竜町と深く結びついていました。
東京で妻が若年認知症となり、家族会の代表として活動してきた干場氏は、オーストラリアの認知症患者・クリスティーヌさんの講演から「認知症にとって大事なのは生活環境と介護力だ」という確信を得ました。
その確信を胸に、若年認知症の患者家族・中村さん一家を北竜町に受け入れることを推進。最初は「冬、寒いから東京から大変だよ」という声もありましたが、「私がこんだけ一生懸命言ってるんだから、一家族に受け入れられないっておかしいじゃないか」という職員の一声で実現しました。
「そのご家族がこちらに来た時に、最初に砂川の病院に行く際、町の職員の方がボランティアで連れて行ってくれました。娘さんの高校の受験の時も、町のボランティアの方が付き添ってくれました」。
北竜町のボランティア活動は全国に認められ、沖縄から青森まで講演が舞い込むほどになりました。NHK・BSでも1時間番組が放映されるほどの注目を集めました。そして干場氏自身も北竜町へ移住を決意。
寺内さんが北竜に移住すると聞いた時は「びっくりしました」と語りましたが、家をリフォームして入居した姿を見て「これで必ずこれからも北竜のために活動してくれる方だと思って、それからホッとしました」と笑いながら語りました。
「こうやってさまざまな人々を北竜に連れてきた時に、町民の方々は本当にいい対応をしていただきました。みんな来て、みんな喜んで」。
見ず知らずの家族を受け入れた北竜町の温かさ。それが、この町の本質でした。
フリートーク ─ 次世代に伝えるべきこと
6名のスピーチが終わった後、「これからの後輩、または北竜町を次世代に絶対に伝えなければならないこと、そして変えていってもいいこと」という問いかけで、1時間のフリートークが始まりました。
農業の理念と次世代への願い
黄倉良二氏は、北竜町の歴史に流れる「物語」の大切さを繰り返し語りました。
「北竜町135年、吉植庄一郎さんが28歳で大原生林に囲まれていた大地を、ノコと斧と鍬とスコップで開墾する壮絶な苦難の道を選ばれた。
その後、北政清氏、後藤三男八氏、松原作造氏。この方々がいなかったら、今の北竜は、全国でも評価されるというものは難しかった」。
「農業というのは基本は人間の安全な食糧を生産すること。農協というのは命・食糧・環境・暮らしを守り育むこと。今の若い人はどこかで振り返ってほしい。
北竜が4つの組織が安全な食糧を生産するという宣言をしたことを。これは全国でないんですから。北竜には言葉じゃなくて実績がある。どこ行っても胸を張れる」。
農協の組合員との対話の大切さも強調しました。
「農協の主役は組合員。職員ではない。役員でもない。組合員だぞ。だから常に組合員のことを考えている。これはやっぱり町長にも言える。主役は町民という。我々ではないと。だから私はいい人に会って教えられた」。
「北竜町の魅力を一言で」
司会の寺内から「北竜町の魅力を一言で言うと」という問いかけがありました。
田中盛亮 氏:「北竜町民はみんな優しい。よその町村の人とは絶対違う。それは素晴らしいと俺は思う」。
黄倉良二 氏:「安全な食糧を生産する。環境を守る。木と緑、水、土地を劣化させない、汚染させない、百姓の心を磨くということ。これが今、地球上で最大の価値です」。
佐野豊 氏:「安全で安心な日本一美味しいお米を生産する町、そして日本一美しいひまわりの里。それが北竜町の魅力です」。
道下甫 氏:「昔若い頃は、飲んでも、集会やっても部下と田植えや農業の話等、いろんな話をしてたね。
みんな家族同様、年寄りも若い者も、どんなことでも話をして繋がっていました。みんなで話し合い、協力し合うことが北竜町の良い所だと思います」。
木村和雄 氏:「水田があり、畑があり、山林があって、北竜温泉の眺望の丘、さらに上の山まで上がったら本当に自然の展望台としてものすごく価値がある。この地形を伸ばすのが最大の強みだと思っています」。
干場功 氏:「こうやってみんなを北竜に連れてきた時に、本当にいい対応をしていただいた。みんな来て、みんな喜んで。この温かさが北竜の魅力です」。
教育長・町長の結びの言葉
田中佳樹 教育長はこう語りました。
「これからの社会がどう変化していくか、大人ですら予想できない。
そうした時に、北竜の一番の宝物は何かと考えた時は、変化をしなやかに受け止める人間性と、人と人との良好な関係性を子どもたちの間に築くこと。
教科がどうとか伝統がどうとかを勉強するのではなく、それを媒体にして、子どもたちに人間を理解する、相手の気持ちを理解する、自分を大切にする、そういうことを学ばせたいと思います。
『決まりはなし』と。決まりは作らない。ただ一つ、『自分を大事に、相手を大事に』それで全てが判断できるでしょ、という町にしたいな、と今一歩踏み出したところです」。
佐々木康宏 町長はこう語りました。
「きっと若い人たち、怒ることをしない、言い争わない。ぶつからないということは、前に進まないということだと思うんですよ。今、その熱がどういうふうに出てくるかということを、少しやり始めています。
生まれてすぐの子どもたちから北竜を見つめていただくような仕掛けをしなければならない。絵本を作りました。0歳の子どもたちから問いかけてあげたい。どんどん魂が大きくなるように、熱くなるように、火が出るように、一生懸命努力したいと思います。
これは1回目のきっかけの回かもしれないですからね」。
最後の記念撮影では「年寄りは前か後ろか」と笑い声が響き、「今日はどうもお疲れ様でした」「充実した顔されてますね」という言葉が飛び交いながら、温かな一体感の中で会が締めくくられました。
「あっという間の2時間でございました。一杯交わしながら、昔話、また未来のお話を語っていただければと思います。本日は誠にありがとうございました」と寺内。
第2部 交流会 ─ 語らいの続く夕べ
17:10からは交流会が始まりました。北竜温泉の温かな料理を囲みながら、座談会の熱気はそのまま続きます。
語り継がれる北竜の魂
会を終えて、その場に集った10名の胸に残ったのは、言葉にならないある感覚でした。
北竜町の魂とは何か。それは開拓の苦労でもなく、農業の技術でもなく、スポーツの記録でもありません。
- 吉植庄一郎 氏が28歳で大原生林に鍬を入れたこと。
- 後藤三男八翁が「蛙の鳴くところには米をつくれ」と水を引いたこと。
- 黄倉正行 氏が4つのランプの下で両手でそろばんをはじきながら34歳で命を燃やし尽くしたこと。
- 引揚者たちが着の身着のまま満州を逃げ、一の沢の荒野に鍬を入れ、白い米の飯を食べたいという願望だけを胸に水利権を求めて戦い続けたこと。
- 貧しい村で青年団が演芸会を開いて仲間の旅費を集めたこと。
- 佐藤見明 氏の「農業とは人間の安全な食糧を生産することなんだよ」という一言が、黄倉良二氏の農業人生を変えたこと。
- 認知症の患者家族を、見ず知らずの町民がボランティアで温かく支えたこと。
それら一つひとつの行為の根底に流れていたのは、自分のためだけでなく、誰かのために、未来のために、という温かな心でした。
北海道・北竜の人たちは、『和の心』『思いやりの心』を「特別なこと」とは思っていません。ただ、毎日を丁寧に、思いやりをもって生きているだけです。
しかし、それこそが今の時代において、どれほど貴重なことか。それは、太陽のようなひまわりの温かい心です
この日語られた言葉たちは、北竜町ポータルを通じて、全国へ、そして世界へと発信されていきます。140か国に届く北竜の声が、世界のどこかで誰かの心を動かし、共感の輪を広げていくことを、願ってやみません。
北竜町の魂は、語り継がれていきます。
太陽のように温かい心で、語り継がれていく偉大なる北竜町の魂に、限りない愛と感謝と祈りを込めて。。。
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