ひまわりライス>             ・JAきたそらち北竜支所>
北竜ひまわりライス生産組合

北竜ひまわりライス生産部会・活動概況 >    ・第1章 地域概況 >   ・第2章 組織の構成 >    ・第3章 活動内容 >
第4章 組織の主要指標 >    ・第5章 組織構成農家の主要指標 >    ・第6章 経営の特色・地域社会活動の特色について >    ・資料 >
北海道審査会・黒澤不二男 審査委員長講評

資料

1.北竜ひまわりライス生産組合規約

【名称】
第1条 この組合は、北竜ひまわりライス生産組合(以下「組合」と言う)と称する。
【事務所】
第2条 この組合の事務所は、きたそらち農協北竜支所に置く。
【目的】
第3条 この組合は、うるち米及びもち米栽培生産者が生産組合栽培協定を遵守し、良質で安全な製品を出荷する事により、北竜町産米としての地位を確立する事を目的とする。
【事業】
第4条 この組合は、目的達成の為次の事業を行う。
 1. 産地指定拡大に関する事
 2. 農協直売に関する事
 3. 栽培協定に関する事
 4. 栽培技術に関する事
 5. その他目的達成の為必要な事項
【基金】
第5条 この組合は、直売基金運用要領に基づく基金を積み立てる。
【組合員】
第6条 この組合の組合員は、北竜町内でうるち米生産及びもち米生産に取組む生産者とする。
【役員】
第7条 
 1. この組合に次の役員を置くものとする。
  組合長  1名(JAきたそらち北竜地区選出役員)
  副組合長 2名(地区代表者の内数)
  監事   2名(地区代表者の内数)
  会計   1名(地区代表者の内数)
 2. 本組合に顧問(若干名)を置くことが出来る。
   顧問は組合長が指名する。
第8条 この組合の役員は、次の職務を行うものとする。
 1. 組合長は、この組合を代表し組合の業務を統括する
 2. 副組合長は、組合長代理を補佐し組合長代理に事故ある時はその職務を代行する
 3. 監事は、組合の会計及び業務を監査する
 4. 会計は、この組合の会計業務を担当する
【役員の任期】
第9条 役員の任期は2年とする。但し、再選は妨げない。
【役員の選任】
第10条 役員のうち、組合長はJAきたそらち北竜地区選出役員からの選任、また副組合長、会計、監事は地区代表者からの選任とし、その結果は定期総会の報告事項とする。
【総会】
第11条 この組合は、定期総会を毎事業年度1回開催する。
    但し、次のときは臨時総会を開催する事ができる。
 1. 組合員の5分の1以上が要求したとき
 2. 地区代表者会議が必要と認めたとき
第12条 この組合の総会は、次の事項について決議する。
 1. 事業計画の収支予算並びに事業報告及び収支決算報告
 2. 経費の賦課及び徴収方法
 3.規約の変更
 4.組合員の加入脱退
 5.その他の事項
【地区代表者会議】
第13条 この組合の運営の為、必要に応じて地区代表者会議を開催し次の事項を決議する。
 1. 総会に提出する議案の審議
 2. 総会で決議された事業、予算の執行、その他組合の運営に必要な事項
第14条 地区代表者会議の構成は次の通りとする。
 1.地区代表者
 2.JAきたそらち北竜地区選出役員
 3.JAきたそらち北竜支所
 4.各指導機関(北竜町・普及センター等)
【会計年度】
第15条 この組合の会計年度は、2月1日から翌年の1月31日までとする。

附則 この規約は、平成16年2月24日より施行する。
         平成17年2月22日 改正
         平成18年2月23日 改正
         平成19年3月2日改正
         平成22年3月2日改正
         平成28年3月8日改正

2.北竜町農業委員会憲章

平成2年(1990年)10月26日 制定

1. 農業委員会は、農業、農業者の代表として、誇りと責任ある行動に務めます

1. 農業委員会は、農用地の確保と有効利用を進め、法令に基づく適正な農地行政に務めます

1. 農業委員会は、農地銀行活動を尚一層推進し、農用地の流動化と集団化の促進に務めます

1. 農業委員会は、産業としての農業を確立するため、担い手の育成と後継者の確保に務めます

1. 農業委員会は、土と自然と緑を育み、そして豊かな水を確保し、わが郷土に夢と希望のもてる生産性の高い(人間の安全な食糧を生産する)農業の育成に務めます

1. 農業委員会は、農業者の期待と信頼に応え、新時代をひらく農政の確立に務めます

会長 澤田 隆司

3.豊かな環境 稔りの農村・北竜土地改良区

土地改良区は、主要な震業生産地帯として生産性の高い活力ある農村社会建設のため、農業基盤整鑓事業の推進にあたつているが、こんにち、内外からの市場開放圧、さらに生産価格の低迷等を余儀なくされており、農業経営は非常に厳しい状況にあり、農業の健全を期するため、経営の合理化と安定化を目標とした営農に取り組んでいるが、社会情勢の変化により、国民の命と健康を守る安全な食糧の生産をしなければならない。そのために農薬を使わない、もしくは農薬を減らし、さらに有機質肥料による「人間に安全な農産物」を生産するための努力が必要であります。

一方、稲作では良食味米を目指し、新しい品種が開発され、栽培管理に必要な水管理、新しい栽培技術が必要となつています。

そのために土地改良区は、自然と緑を育み、そしてきれいな水を確保し、安全な農産物生産に努めます。

平成2年(1990年)11月22日 北竜土地改良区
理事長 南波彰

4.国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言の町について・北竜町

議案第52号

国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言の町について

本町は、国民の命と健康を守る安全な食糧生産について別紙のとおり宣言するものとする。

平成2年(1990年)12月18日 提出
北電町長 森 正一

宣言

本町は、国民の食糧生産基地としての誇りをもってその生産に邁進して来た。
現在、工業等の進展に伴い地球的環境が破壊され自然景観の維持や安全な食糧生産は今や国民的願望である。
よってわが国は、全農民の意思を結集「国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言の町」をここに宣言する。

5.北竜町ひまわり生産組合における歴史的背景とこれまでの歩み

後藤亨氏    黄倉良二氏 
左:後藤亨氏  右:黄倉良二氏


昭和 48年(1973年)自然農法米作付け始まる

(財)自然農法の薦めにより故後藤亨・黄倉良二氏(前きたそらち農協組合長)が昭和48年(1973年)より自然農法米生産に取り組み、その成果が4戸の農家に受け継がれている。

公害が全国的な問題になっていた時代、後藤亨氏の父親であり、元北竜農協組合長の後藤三男八氏より理事候補者の黄倉氏へ「いずれ世界の食料は(物量ではなく、安全な食料という意味で)なくなる。そのことを踏まえて農業の実践、農協事業を考えよ」と伝えられた。

黄倉氏は自然農法を信奉していた亨氏から誘われる形で昭和48年(1973年)から自然農法の米づくりが始めた。こうして北竜町に於ける米作りの理念が生まれていった。

・昭和61年(1986年)札幌市民生協理事者と農協青年部の懇談会を開催
 札幌市民生協にて米の無償配布・PR始まる(青年部)

農協青年部役員(橋本勝久部長)26人は、「ひまわり油」を納入していた札幌市民生協を訪問、道産米・北竜米の購入について熱心に話し合いを行った。席上、生協理事は、「道産米を食べましょうということだけでは、生協組合員へのアピールは弱い、何か北竜町の米に対する特質、特徴がないだろうか。例えば有機栽培とか無農薬栽培の米という目玉が必要だ」と発言している。この発言が出席していた青年部役員の意識を大きく変えることになった。

・昭和 62年(1987年)九州共生社生協との交流始まる(青年部)、北竜町もち米生産組合設立

九州の生協連合組織であるグリーンコープから、安全性の高い、すなわち除草剤を使わない米を作ってもらえないか、という依頼があり、青年部役員は、消費者が安全な米、食料を必要としていることをあらためて噛みしめた。

また、第1 回ひまわりまつりが開かれることになり、青年部では、この機会を利用して札幌市民生協との交流会を開催することにした。8 月、札幌市民生協一行 45人が来町し、無農薬圃場、ひまわり団地を見学、ゆきひかりのおにぎり、牛肉、ジンギスカンで昼食をとり、午後には、農協組合長、町長、農協青年部(板垣義一部長)、婦人部、若妻会の各役員、農協職員、約 80人との懇談が行われた。

生協側の声は「米をはじめ農産物は、われわれにとって一番大切なものであり、より安全で新鮮な安い農産物を安定的に供給して欲しい」という点に集約され、農協側の声は「これからは消費者と生産者が手を握り合い、共に生きていきましょう」という点に集約されている。同年、札幌市民生協は北竜町ゆきひかりを産地指定した。

・昭和 63年(1988年)きらら397作付け開始

   有機無除草剤米の取組み始まる(青年部)
   農協青年部が提案「国民の命と健康を守る農民集会」において、安全な食糧生産を宣言
 有機・減農薬栽培開始(自主流通米・特別表示米)

・平成元年(1989年)有機・低農薬米の作付け始まる

・平成 2年(1990年)北竜町・土地改良区・農業委員会で安全な食糧生産を宣言

 ※ 町内の農業団体がそれぞれの立場で安全な食料生産を宣言する事は全国を見ても例はない

・平成 4年(1992年)北海道クリーン農業地区指定(H4~H5)

 農林水産省「有機農産物等に係る青果物等特別表示ガイドライン」告示

・平成 5年(1993年)特別栽培米の取組み始まる

・平成 6年(1994年)北竜町CRF協議会設立(消費者契約栽培米対応)

・平成 7年(1995年)北竜町産きらら397特Aランクとなる

 無防除米(殺虫・殺菌剤不使用)の作付け始まる(青年部)

・平成 8年(1996年)北竜町玄米ばら調整集出荷施設完成

 農林水産省「有機農産物及び特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」告示

・平成 9年(1997年)農林水産省『有機農産物及び特別栽培農産物に係る表示ガイドライン』告示(米対象となる)

・平成 11年(1999年)いもち病の発生により、追加防除を行った為、減農薬米とならず、米を待っていた実需や消費者に多大な迷惑をかけた。この反省から、より消費者に信用される安全な米を届けたいという思いが強くなった

・平成 12年(2000年)きたそらち農協(深川5JA・雨竜・北竜・幌加内各町1JA)誕生

・平成 13年(2001年)自然農法米生産者が有機JASに申請し認定される

・平成 14年(2002年)北竜町クリーンライス生産組合設立「YES!clean」の承認を受ける

・平成 15年(2003年)米政策改革大綱「米づくりの本来あるべき姿」

 北竜町全面積低農薬栽培実施方針を出す(JAきたそらち北竜支所)

・平成 16年(2004年)北竜町うるち米生産組合設立(全戸加入)もち米生産組合と伴に使用農薬成分を統一し、12成分以下の低農薬栽培とした(95%達成)
農林水産省『特別栽培農産物表示ガイドライン』改正、減・減栽培以上

・平成 17年(2005年)生産情報公表JAS規格に農産物追加される

 北竜町CRF協議会・クリーンライス生産組合を「うるち米生産組合」に統合栽培基準の見直しを行い、使用農薬11成分以下とする
 「北竜町玄米ばら集出荷施設」を改修。有機JAS小分け業者の認定を受け、全ての生産物を集荷・調整・包装を可能とする

・平成 18年(2006年)生産情報公表JAS規格を 北竜町米生産組合で 申請し認定される

・平成 19年(2007年)うるち米・もち米生産組合の総称をひまわりライス生産組合とする

 「生産公表農産物についての小分け業者」の認定をJA支所で受け、ひまわりライスにJASマークを添付し、販売を始める

6.低農薬栽培等の実績一覧と水稲病害虫予察体制図

■ 低農薬栽培等の実績一覧

低農薬栽培等の実績一覧

■ 水稲病害虫予察体制図

水稲病害虫予察体制図 各支所の状況把握
  
防除推進方針の決定
  
一斉防除実施指示

地区の発生状況把握
地区内一斉防除指示

営農組合内の状況把握
営農組合内の一斉防除実施

各自のすくい取りを随時実施
発生状況を予察員に報告

※ 北竜町は低農薬栽培を進める地域であり、適期防除の判断材料となる予察の体制を整えている。合わせて、独自の作況調査も行い、情報は生産者へリアルタイムに周知している。

7.ひまわりライスの販売メリット

■ 平成24年(2012年)産米(全道共計精算単価のない三種混合については「ななつぼし」との比較)

平成24年(2012年)産米(全道共計精算単価のない三種混合については「ななつぼし」との比較)

■ 平成25年(2013年)産米(全道共計精算単価のない三種混合については「ななつぼし」との比較)

平成25年(2013年)産米(全道共計精算単価のない三種混合については「ななつぼし」との比較)

■ 平成26年(2014年)産米(全道共計精算単価のない三種混合については「ななつぼし」との比較

平成26年(2014年)産米(全道共計精算単価のない三種混合については「ななつぼし」との比較

8.公表JAS制度の仕組み

公表JAS制度の仕組み 
公表JAS制度の仕組み

9.情報公表システムフロー図

情報公表システムフロー図 
情報公表システムフロー図

10.全町営農集団化の経過と概要

(1)歴史的背景・人脈

北竜町における全町規模での営農集団化への取り組みは、昭和35年以降(1960年代)になるが、まず、そのことを可能にした北竜町の伝統、北竜町農業協同組合、その人脈形成について次のとおり言及する。

北竜町は、明治 26年(1893年)の千葉県からの自由移民、明治 27年(1894年)の渡辺農場(秋田県横手の資産家、北竜地区 928ha、多度志地区 332ha)開設によって開拓が始まった。渡辺農場は、明治 36年(1903年)と大正 7年(1918年)に板谷商船に売却され、後、板谷農場となった。その4 代目管理人が北政清(きたまさきよ)である。

千葉県からの移住者達は第 16部産業組合(大正 6年(1917年)、後北竜村三和産業組合、指導者・加地彦太郎)を設立、板谷農場では、奈井江産業組合の創設者北小太郎の三男であった、北政清が板谷農場産業組合を設立した。

板谷農場産業組合は、完全に小作人だけの産業組合であり、その専務理事が北の義弟である後藤三男八(ごとうみおはち)(1898 年~ 1980 年、雨竜村生まれ)であった。

昭和16年(1941年)には、三和産業組合と板谷農場産業組合とが合併して、北竜村産業組合となり、北政清が組合町理事、後藤三男八が常務理事を努めることになった。さらに、この北竜村産業組合が、農地解放の結果、北竜町農業協同組合へ移行していくことになったのである。

以上のように、 ① 北竜村の集落は厳しい自然、経済的条件下におかれた開拓農家の地縁的な隣保共同体であった
② 北竜村産業組合は、都府県の産業組合とは異なって、小作人主体の産業組合であって、在村地主、自作農から小作農へという指導勢力の大転換なしに農業協同組合へ移行していった(北の公職追放はあったが)
③ 北・後藤、その人脈による農協の指導体制は1920 年代には確立していたのである

後に続く2代、4代組合長理事・石川実、6 代組合長理事・村井日吉も板谷産業組合出身であった。

後藤は、昭和 22年(1947年)から道議 2年、昭和 30年(1955年)からは 5代目組合長理事を 6期 18年間にわたって勤め、卓抜した指導力を発揮している。のみならず、昭和32年(1957年)からは、北農中央会理事 6 年、昭和 42年(1966 年)から理事 4 年、専務理事 2 年間をつとめあげ、北海道農協運動の重鎮としても大きな役割を果たした。

(2)全町営農集団化への歩み

北竜町において営農集団化への模索が始まる契機は、昭和 30年(1955年)以後の高度経済成長である。
それまで北海道の農村には、東北から多くの農業労務者が来ていたが、昭和 35年(1960年)頃から急激に減少している。

彼らは高度経済成長の結果、京浜へ向かうことになった。北竜町では、昭和 37年(1962年)224 人、昭和 38年(1963年)149 人、昭和 39年(1964年)106 人、昭和 40年(1965年)と急激に減少している。農業労務者を確保することが次第に困難となり、賃金も高騰していった。

ア.先駆的な取り組み(町周辺部)

農業労務者確保の困難さは、町周辺部から始まり、ここから新しい取り組みが始まった。

昭和 36年(1961 年)に、小豆沢(しょうずさわ)集落の母子家庭 3戸が共同田植えをはじめ、翌年 8戸、翌々年には集落全戸(19 戸)が参加した。同時に共同炊事が始まり、献立表も作られ、さらに共同防除、冬期の農外収入共同稼業へと発展していった。

昭和 38年(1963年)には竜西(りゅうさい)農場においても、労務者を確保できなくなったことから、5戸で共同田植え・共同炊事を行うようになった。ここでは、分家による耕作面積の零細化、傷病による経営不安、高齢化、後継者問題が真剣に話し合われ、昭和 40年(1965年)に農事組合法人となることが決定された。

組合員は、男 10人、女 10人、家族 17人であった。水田面積は 54.4ha、畑が 0.8ha であった。農機具は、トラクター 3台、脱穀機 3台、動力噴霧器 1台、乾燥機 6台で、スタートしている。
昭和 41年(1966年)には、竜西農場の西に位置する豊竜農場が耕地面積 36ha、稼働人員 13人の農事組合法人となった。

イ. 農協を中心とする本格的な取り組み

農業労務者の確保の困難さに直面して、農協内部でも対応策が検討されるようになっていた。

昭和36年(1961年)頃、後藤組合長は、「日本のどこかにこの問題を解決している地域があるはずだ」と、農協職員の四辻進(よつじすすむ)に期限のない、行き先の指定もない自由な研修を命じている。

四辻は、北竜町が直面している課題を踏まえて、研修先を時間をかけて選定した。見学先は、愛知県の機械利用組合、奈良県の共同農場、上野満の共同農場などであった。

その研修報告を受けて、農協内部で勉強会、熱い議論が始まった。
昭和 37年(1962年)に営農改善推進機構が設立され、そこで、「立地条件に適した経営方式と経営設備を改善して完全な自立経営農家を育てる」ために全町の水田基盤整備事業に取り組むことが決定された。

翌 昭和 38年(1963年)には、それは、基盤整備事業協議会という名称に改称された。この基盤整備事業協議会における議論が、北竜町営農集団化の基本的な方向性を定めることになった。会長は森町長(前農協専務理事)、副会長が後藤組合長で、他に議会、農業委員会、産業常任委員会、土地改良区、農業共済組合。農業改良普及所などの団体長が常任委員をつとめていた。

しかし、具体的な中身は、企画委員会で詰められることになり、企画委員として町産業課、農協、農業改良普及所、土地改良区の若い世代が参画することになった。1年間にわたって、圃場整備事業の学習、先進地の視察、徹底した計画づくりが行われ、同年の後半から圃場整備事業に関する説明懇談会が全集落で実行された。

企画委員会での議論、計画が協議会で了承され、集落における懇談会を経て、翌 昭和 39年(1964年)には、農業構造改善事業基本計画としてとりまとめられた。昭和 40年(1965年)には実施計画書が認可され、いよいよ農業構造改善事業、第 1 次農業構造改善事業が施行されることになった。まず、碧水(へきすい)トラクター利用組合など 5つの組織が立ち上げられた。
各集落における実際の事業展開の主力は、30代の青年層であった。それは、基本的な農業生産力構造の転換の結果である。つまり、馬耕から小型耕耘機に転換してまだ間がないのに、さらにトラクター段階へということで、もはや高齢者層では、事態の急速な展開についていくことが出来なかったということである。

さらに、昭和45年(1970年)には、第 2次構造改善事業がスタートし、全町的な水田整備事業が動きだし、昭和49年(1974年)には、ついに全町営農集団化が実現( 20の営農集団・2つの農事組合法人)されることになった。

平成 2年(1990年)には、北竜町営農集団連絡協議会は、北海道初の農林水産大臣賞を獲得している。

(3)全町営農集団化実現の要因

全町営農集団化が実現した要因として、主に次の点があげられる。

① 北竜町及び北竜町農協の歴史的な性格(小作人の産業組合、地縁的な隣保、共同体、経済的格差が少ない)
② リーダー層への信頼感の存在(後藤は板谷産業組合以来 50年間指導的地位にあった)
③ 転換点では積極的に若手を登用し、先進地域の研修、計画づくり、集落での説明に当たらせたこと
④ 行政との一体化(農業の町であり、当時の町長は前農協専務理事)
⑤ 構造改善事業を全面的に利用したこと

関連特集記事

第5回北海道地域創造フォーラム in 北竜「北海道・コメ・未来」の開催
生活協同組合ナチュラルコープヨコハマ設立30周年記念講演会で黄倉良二氏ご講演
拓殖大学北海道短期大学・環境農学科(八谷和彦 教授)の大学生が水稲の病害虫調査@(有)田からもの有機栽培圃場
びっくりドンキー田んぼの生きもの調査2014・ナチュラルファーム黄倉(北竜町)
第34回豊作祈願・交通安全祈願元旦マラソン 2017・熱い想いを次世代に引き継ぐ