2019年12月16日(月)
12月5日(木)、北竜町ひまわり大学講座にて、「『食べものはいのち』『命・食糧・環境・暮らし』を守り育む北竜町」と題して、黄倉良二氏(元北空知農業協同組合・代表理事組合長)による講演会が開催されました。
「『食べものはいのち』『命・食糧・環境・暮らし』を守り育む北竜町」
講演会に先駆け、黄倉良二氏にとって、今回520回目にあたるひまわり大学での講演会が、最後になることをお話されました。
▶ 講演会を最後にするきっかけとなった友人「渡辺要二さんの死」について
「今年、3月14日に逝去された渡邊要二さんは、私にとって、北竜中学校が一緒で、ずっと友達でした。力強い方で、いろんな事を教えていただきました。渡邊さんは、板谷地区にきて50年。板谷の人口110人の内、同級生が6人います。
様々なことで力になっていただいた方が、突然いなくなってしまいました。友達だと思っていたにも関わらず、死ぬほど悩んでいたこに気づかなかったことが無念でなりません。このことに私自身大きな衝撃を受けました。
その時に、教育委員長の本多一志さんにお会いして『心に大きな穴が空いたので、これまで500回以上続けてきた講演会を今年で終了することを決意しました。その最後の講演会を、12月の北竜ひまわり大学で話をさせてください』と自らお願いした次第です」と、お話された黄倉さんです。
▶ 講座のレジメ・資料
講座のレジメ・資料
会場の様子
▶ 520回目の講演会「食べものはいのち(生命)」
「私は、昭和47年(1972年)から、後藤亨さんと二人で自然農法(農薬防除をしない。除草剤を使わない。化学肥料を使わない)の実験を、後藤三男八さんのご指導の元、はじめました。
そして、昭和50年(1975年)から、その自然農法についての話を道内外各地でさせていただくことになりました。これまで45年間、そして今日で520回目の講演会となります。直近では、10月14日(月)に岡山県岡山市、10月15日(火)に尾道市で行った道外での講演会が最後です。
話の中で必ず語ったことは、後藤三男八さんの教えについてです。後藤三男八さんがいなければ、我が家は北竜にもいることができなかったし、私はまともになっていなかったかもしれましせん。
後藤さんの教えの実践を通して、北竜農協、組合員、北竜町民が理解してくれる『あなたの命の食べものを作っています』という話をさせていただいています。ここ10年間くらいは、道外からの講演依頼多く、農協の必要性や在り方などについての話をしてきました。
▶ 谷本明さんのお言葉「真夏の太陽に向かって、美しく力強く咲き誇るひまわり」
講演会の冒頭には常に『真夏の太陽に向かって、美しく力強く咲き誇るひまわりの町・北竜町』という谷本明さんの言葉を、許可を得て使わせていただいております。
この言葉は、北商10マイル大会の雑誌に掲載されたものです。この言葉は、実に素晴らしい言葉で、北竜町民の力、そして美しい心、花を大切にする心を最も表現した言葉と思っています。谷本さん、ありがとう!
講演に耳を傾ける参加者の皆さん
▶ 数え年81歳の私の生い立ち
私は、昭和14年(1939年)6月1日生まれです。数えで81歳です。何故、数えで歳を言うかと申しますと、平成2年(1990年)、北竜農協の専務を拝命したときのことです。
妹背牛町の松田宮司が来られて、『あなたはこれから、多くの人々に歳はいくつですか、と問われます。その時に、あなたは数え歳でお伝えしなさい。日本人は十月十日の1歳を粗末にしてはならない。ましてや、あなたは、食べものはいのちの話をしています。誇りをもって数え歳を使いなさい』と言われました。
私は6人兄弟の次男坊。母親は長男を生んだ後、母乳がでなくなり虚弱体質でした。私は母乳を飲まずに育ち、小学校時代は、まっすぐに立てない『くる病』を患いました。その頃、おおじいちゃんが飼っていた牛の牛乳を飲んで育ちました。
中学校へは65%の出席率で、夏は昼から草取り、稲刈り、稲架掛け、収穫作業を行い、100%出席は不可能でした。
▶ 人生の大きな基点となる年・昭和29年(1954年)15歳
昭和29年(1954年)は、私の人生の中でも、大きな基点となる出来事が怒涛のごとく重なった年となりました。洞爺丸台風にはじまり、中学校の全校弁論大会、父からの言付けと杉本さんの助け、代表監事から離農の勧告などです。
▶ 3月:洞爺丸台風(青函連絡船「洞爺丸」遭難)
・3月:洞爺丸台風(青函連絡船「洞爺丸」遭難)の年であり、3月1日におきたアメリカのビキニ環礁での水爆実験の事件をきっかけに、核兵器の恐ろしさが広そ知られ、全国で原水爆禁止運動の機運が高まった時代でした。
▶ 9月:中学校の全校弁論大会
9月、北竜中学校で全校弁論大会が実施され、各学年1名ずつ参加しました。当時、担任の金山先生に『私にやらせてください』と志願。『二度と繰り返すな原爆の悲劇』というタイトルで、ビキニ環礁での水爆実験で、マグロ漁船の第五福竜丸が死の灰を浴びたことに衝撃を受け、その事についてにスピーチしたいという想いがありました。
原稿用紙7枚を5分以内でスピーチする弁論大会で、基本的には、生徒が書いた原稿を先生にチェックしてもらい、大会に挑むものでした。しかし私は、『自分の本当の考えを訴えたい』という想いから。先生に見せずに、原稿そのままのスピーチを行いました。
結果、優勝には至りませんでしたが、浅野教頭の審査員としての最後の講評は、『学生にしては難しすぎる題材なので、もっと中学生らしい表題で弁論しなさい』というものでした。私は、『人の命が化学の力によって失ってしまうという、こんなことを繰り返してはいけない』という想いは、中学生にも教えるべきではないかと今でも思っています。
▶11月:父からの言付け「農協でえん麦3俵買ってこい!」
当時の農業は、馬そりの時代。冬の間、馬が脚気にならないための馬の餌であった『えん麦』を農協に買いに行けと、父から言付かりました。
そこで、お金を持たずに馬橇で農協に買くと、農協職員は、中学生の私に向かって『坊、何の様だ?!』といい、『えん麦3俵買いに来ました』と答えました。『お金もってきたか?』と問われ『農業手形でお願いします』と返答。すると、『お金をもってこないとえん麦は売れないぞ!』と、既に馬橇に積まれたえん麦は降ろされ、空のまま返されてしまいました。
▶ 馬喰の杉本さんに助けられた馬の餌
泣きながら、空の馬橇を引いて家に帰ると、隣に住んでいた馬喰の杉本清松さんが、そんな様子を見守ってくれていて、『良ちゃん、ちょっと待て! 納屋に穴を掘れ』と言いました。
えん麦を買えないとわかっていた杉本さんは、ぼっこを用意し、馬に積んだドラム缶を納屋に運んできてくれました。ドラム缶が入る穴を掘り、そこに藁を詰め水を溜め、足で踏み、カーバイト(石灰).1斗缶をお湯で溶かしたものを混ぜ2日間浸しました。
馬はえん麦を食べないとビタミン不足で脚気になってしまいます。馬が石灰藁を食べると、太らないし、脚気にもならない。『来年は、これで百姓やれるからな』と温かい言葉をかけてくれた杉本さん。私は、この時杉本さんに助けられました。
▶12月:『良ちゃんが農家を継いでくれなければ、死ぬしかない』という母の言葉で就農を決意
父親が、北竜農協理事から『保証人の判を押す人がいないので、辞めてくれないか』との離農勧告を受けました。当時、黄倉家は10人家族。
兄は翌日家を去り、農家継承を拒否。そんな時『誰かを残したら、判子を押してやる』と、後藤三男八代表理事組合長から、限定付保証が言い渡されました。この判子は、『硫安・過リン酸石灰・塩』に対する保証でした。父親は、すでに次男坊の私を、北正清さんの所で修行をさせることを決めていました。
後日、母から『良ちゃんが農家を継いでくれなければ、死ぬしかない』と言われ心が決まりました。私は、走ることが好きだったので、自衛隊に入って陸上競技をやり国体に出たいという夢をもっていましたが、その母の切なる言葉で農業継続を決意しました。
▶ 借金を返すための青春時代
・中学1年生から半農で、学びながら農業
卒業後は、朝は4時から夜8時まで仕事をしました。当時、走る仲間が集まって毎日10km、月に2回は15km走っていました。真っ暗な砂利道を走って帰って、洗濯をして風呂に入り10時頃就寝。
・賭け事はしない
お金がなく、時間もなかったので、賭け事は一切やりませんでした
・青年団活動入会
尊敬すべき先輩である田中盛亮さん、金山信次さんとの出逢いによって、自分よりも苦労を重ねている人々が沢山いることを実感。そしてお二人に誘われ、青年団に加入(12か町村・約5,000人余りの団員)。
当時お二人は、北空知青年団の団長としてご活躍され、私は事務局長を拝命。ガリ版の時代であり、この頃の経験が後の農協運動にとって貴重なものとなりました。
▶ 後藤三男八氏の教え
・昭和47年(1972年)11月2日、当時北竜農協の組合長だった後藤三男八氏に呼ばれ、『私は昭和48年4月の定例総会で退任する。後任には、中村利弘君(家族経営の農業、大工仕事、そして俳句の世界では日本を代表する文化人)を推奨する。しかし、後任に若い人達をという声もあるので、もし選ばれたら、3つのことを守れ。守れなかったら止めれ。
1.本を読め。本は必ず血となり肉となる
2.これからの時代、やがて食べものがなくなる。そのことを自分で考え実践し、農協事業に反映できるよう努力をしなさい
3.農協役員は、地位と名誉と金を求めるな
そして最後に、自分に対する世の中の評価は、組合長を辞めてから10年後に表れる。
農協とは、役員のものではない、職員のものでもない、それは組合員のものである。必ずそこに立ち返れ。何か問題が起きて迷った時、どうすることが組合員の為になるかを考えよ。そこで出た答えに従え』というその後の私の人生の指針となる後藤三男八氏の貴重なお言葉をいただきました。
同席されていた、後藤三男八氏の息子の後藤亨さんが、父親の話の意味を語ってくれました。『父が言う『やがて食べものがなくなる』という意味は、この先、経済の成長が続くと、経済合理性が先行し、安全な食料生産が後退することを意味している。百姓は自分のつくった物がどんなものなのかをじっくりと考えながら農業をやりなさい、と父は言っている』と1合のお酒を交わしながら語ってくれました。
後藤亨さんは、中学卒業後、江別駅前の書店で丁稚奉公。座って食事をしたことがないほど働いていました。お金を貯め、札幌第一高校の首席特待生となりますが、中学3年生の時体を壊し帰郷。鶏を飼いながら、残された6反の田んぼを自然農法(除草剤不使用・化学肥料不使用・農薬を行わない)を私と一緒に始めました(昭和48年開始)。
▶ 北海道自然農法の先達・佐藤晃明さんの言葉「農業は、安全な食べものを生産すること」
自然農法を実施するにあたり、北海道自然農法の先達・佐藤晃明さんの農場(当別町)に研修に訪問。
畦を歩きながら、佐藤さんに問われた言葉が『黄倉さん、農業とは何だかわかりますか?』。中学時代から20年間以上、借金を返すために農業を行ってきた私にとって、『農業とは何か』という質問に、頭では理解できても一言で答えることはできませんでした。
『農業は、人間の安全な食料を生産することなんですよ。農業は、食べていただく人の命を守ることです』。
この佐藤さんのお言葉が、すぅーと身体に染み入り、『これから、人の命を守る農業に努力し続けていけばいいのだ』と心の底から実感しました。
『だけど、難しいよ。自分ひとりではできないよ』と佐藤さんのお言葉。自然農法は、決してひとりの力では実施できるものではなく、多くの人々の協力と強靭な想いがあってこそ実行・継続できるものであることを佐藤さんは教えてくださいました。
黄倉良二さん
▶ 「命・食糧・環境・暮らし」を守り育むことが農協の原点
1.この世で最も大切なもの、それはいのち(命)
2.あなたのいのちは、どうやって守り育まれたんですか?
医学と化学がどんなに進歩しても、血となり肉となる食べものが無い限り、生き続けることはできません。
水は食べものをつくる力があります。医者と薬だけでは命は守れません。
命を育み守ってくれたものが食べものです!
命を守る食べものは、環境が良いものでなければなりません。
協同組合の原点は、「命を大切にする食糧を大切に作ってそれを伝えていく。環境を守りながら、そしてあなたの暮らしを守っていくこと」です。
▶ 天に感謝し、安全な食糧生産を持続する品質管理
・山と木と緑を守り、力のある豊かな水を確保すること
・世代を超えて、誇り得る土地を伝承すること
・百姓の技術と魂を磨き続けること
・意欲ある担い手を具備すること
▶ 黄倉組合長として取り組んだ低温倉庫建設
当時、農協広域合併に向けて、米15万俵を保管・管理するための低温倉庫建設の取り組みが必要でした。
建設費における組合員の負担を軽くするためには、その建設費を今までの60%以下にするという、従来とは異なる破格の建設費をかかげ、競争入札を実施することを決意。
この方針を提案できた理由としては、静岡県で建設業を営んでいた私の兄に、建設業界の実態を尋ねたところ、その設計なら55%で利益は上がると言われ、踏み切ることができました。それを、53.8%で受けてくれた建設会社があった。この建設にあたり、北竜町から1億2千万円の助成金を受けることができました。
その後、平成12年(2000年)に対等合併(北竜町農協は、8つの農業協同組合の広域合併により、きたそらち農業協同組合(JAきたそらち)北竜支所となる)。その合併時にJAきたそらち代表理事専務に就任。2年後の2002年に代表理事組合長に就任となりました。
▶ 後藤さんの言葉「我慢することは、恥ずかしいことではない。倒れることが一番恥ずかしいことだ」
20歳で消防団員になり、火事になったとき、自転車で駆けつけていました。父親が、バイクを与えることを後藤組合長に懇願。
次の日、後藤組合長に呼び出され、『バカモノ! 何を考えとる! おまえは、人の判子を借りて農業をやっている。何がバイクだ! 消防団員にはそれぞれの役目がある。おまえは、自転車で最後に駆けつければいいのだ。後片付けを一生懸命手伝ってこい!』。
さらに『良二! 我慢することは、恥ずかしいことではない。倒れることが一番恥ずかしいことだ。倒れると多くの人に迷惑をかける。なんで、我慢できないのだ!」と言われた後藤組合長のお言葉は、今でも蘇ってくる忘れられないお言葉として胸に刻み込まれています。
黄倉良二さん
会場の様子
▶ 気候変動現象「天が怒り地が叫ぶ」
天が怒り地が叫ぶ
・COP25(第25回国連気候変動枠組み条約締約国会議):気候変動問題における国連会合
大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させ、気候変動がもたらす様々な悪影響を防止するための取り組みが進められています。
・地球温暖化:二酸化炭素(CO2)の増加で大気が温められ、気温上昇します
・気候変動:100年に一度といわれる災害が多発
・グレタ・トゥーンベリさん:地球温暖化対策を求める若者の運動を世界的に広げた(スウェーデンの16歳の活動家)
・『天が怒り地が叫ぶ』
こうした気候変動現象は、『生きる人間よ、もっと地球を大事にせよ』という天の怒りであり、地の叫びが地震となって現れていると思います。
▶ 経済企画庁宣言(1992年1月)
持続可能な発展を目指すものとして、
1.爆発的な人口増加を阻止する努力(居住地、公用施設他確保の限界、食糧生産地確保の限界、水確保の限界)
2.地球規模での環境保全の努力
▶ 環境庁長官宣言(1992年2月)
・地球規模での環境の恩恵は人類共有の財産
地球規模での環境の恩恵を、特定の人、特定の国が享受してはならない。人類共有の尊い財産である。
▶ 地球サミット:外務省「国連環境開発会議@リオデジャネイロ(1992年6月)
・172か国に政府代表が参加
・何事にも先駆けて取り組む課題(地球規模)
・爆発的に増加する人口を抑止する努力
・飢えと貧困の克服
・全ての人々が環境を保全する努力
・食糧生産条件を確保する努力
パリ協定、COP25の基本は、1992年の地球サミットから始まりました。
(黄倉良二氏のレジメ参照)
黄倉良二さん
▶ 平成2年(1990年)国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言
▶ 森正一元北竜町長の偉大なる功績
1.恵岱別ダムを造る
2.恵岱岳のスキーリゾート建設を阻止
3.国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言を実施(平成2年12月18日)
食べものはいのち(生命)
▶ 北竜町農業委員会憲章(平成2年10月26日)澤田隆司会長
「農業委員会」は、土と自然と緑を育み、そして豊かな水を確保し、わが郷土に夢と希望のもてる生産性の高い「人間の安全な食糧を生産する」農業の育成に努めます」と宣言。この憲章は、全国で北竜町だけです。
▶ 北竜土地改良区「豊かな環境 稔りの農村」宣言(平成2年11月22日)
「土地改良区は、自然と緑を育み、そしてきれいな水を確保し、安全な農産物生産に努めます。土地改良区 理事長 南波彰
こうして、北竜町・農業委員会・土地改良区が三位一体となって、 『国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言』を実施したのは、日本で初めての取り組みとなりました。
米国有機農業学会で紹介された日本の町は、宮崎県綾町、大分県大山町、山形県高畠町、北海道北竜町であり、その中でも、『国民の命と健康を守る安全な食糧生産宣言』をしたのは、北海道北竜町だけです。
このことによって、農業生産者だけでなく、北竜町民が一致団結して、『国民の命をまもる安全な食べもの』を生産する町という精神を今日まで守り抜いている証です。
▶ 本物とは、後味が良い、潔い、卑しくない
沖ヨガの内山英郎氏のお言葉『本物とは、後味が良い、潔い、卑しくない』。内山氏は、自ら有機農業をやりたいという志をもって、北竜町に何度も訪問。何度も杯を交わしながら、お話をした方です。
その中で、最も印象に残っている言葉が、「本物とは?」という言葉。この言葉は、全てのことに通用する言葉であり、食べもの、人間性、すべての人生における本物の在り方を表現したものだと思います。
▶ 真の豊かさ、真の幸せを目指して
本当の豊かさとは、飢えのないこと、健康であること、安全に暮らせることに尽きます。この3つには、心と身体と社会の飢え、心と身体と社会の健康、心と身体と社会の安全であることが表されています。
戦争と災害の無い町で、家族が健康で働き、家族が健康で暮らし、その営みを通じて、人と地域と社会に貢献するという真の豊かさ・真の幸せを目指すことが北竜町のメッセージです。
これらのことを、これまでの520回の講演会で話してきました。ひまわり大学での講話が最後の講演会になりました。ただ、札幌で行われているお母さんと子供のミニ懇談会は、できるだけ続けたいと思っています。
本日は、ありがとうございました」と、熱い魂を込め、力強く語ってくださった黄倉良二氏です。
熱い魂を込め、力強く語る黄倉良二さん
「食べものはいのち(命)」の魂が宿る、
黄倉良二氏の過去と現在の熱い語り合いに、
限りない尊敬と感謝と祈りをこめて。。。
サンフラワーパーク北竜温泉
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◇ 撮影・編集=寺内昇 取材・文=寺内郁子