2019年8月19日(月)
8月8日(木)10:00〜、北竜町ひまわり大学講座にて、元月形町長・櫻庭誠二様を講師としてお迎えし、「樺戸集治監と北海道開拓」と題する講座が、公民館大ホールにて開催されました。
司会進行の北竜町教育委員会・岸直樹さんによる、櫻庭誠二様のご紹介です。
▶ 櫻庭誠二プロフィール▶ 略歴櫻庭誠二様は、新十津川町出身、昭和25年4月生まれの69歳。酪農学園大学酪農学科卒業後、家業の農業に従事。月形町農業委員・篠津中央土地改良区理事等の公職を歴任。平成7年(1995年)に月形町議会議員に当選。その後、多くの町民から推挙され、平成16年(2004年)10月に月形町長に就任。以来3期12年、町政の舵取り役を務め、昨年、平成30年(2018年)10月、任期満了をもって町長を退任。現在、法務省矯正局広報大使(名誉典獄)、月形樺戸博物館名誉館長として地域開拓の歴史伝承役としてご活躍中。 ▶ 表彰
・平成28年(2016年)農林水産省農村振興局長表彰受賞
▶ 櫻庭誠二様のお話
▶ 黄倉良二氏、そして篠田久雄氏の貴重な出会い
今日、最前列にいらっしゃる黄倉良二 元JAきたそらち代表理事組合長、そして 篠田久雄 元沼田長町は、私の大先輩です。 ▶ 我が町の日本一!
私が町長になった平成16年(2004年)の翌年、市町村長研修セミナーが実施され、隣席が、知内町の脇本哲也 元町長でした。 ▶ 日本一元気な返事の町を目指してそして町長時代には「元気な返事をする」ことをモットーとしていました。様々な式典で名前を呼ばれた時は、元気な声で『はい!』。これに同調してくれたのが、制服組である、警察支署長、消防支署長、交通安全指導委員会会長等の方々。あっという間に広がって、多くの人々が『はい!』と元気よく返事をするようになりました。
▶ 縄文文化人の遺伝子を持つアイヌ民族▶ 縄文人骨に残るDNA研究
国立科学博物館によると、縄文人骨に残るDNA研究(女性人骨の高精度ゲノム分析)により、平均的日本人は縄文文化人の遺伝子を10%しか持っていないが、北海道アイヌの人々は70%保持、そして次が沖縄人で30%保持しているそうです。縄文文化は1,000年から2万年前までと言われています。 ▶ 北の縄文文化
北海道の時代は、縄文文化、 続縄文文化、 擦文文化、アイヌ文化と繋がっていきました。そこで、縄文文化人の遺伝子を70%保持したアイヌ民族が存続しているのです。
▶ 元寇西暦1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」、九州博多に来た「元(モンゴル帝国)」の蒙古襲来「元寇」で、神風が吹いて奇跡的に日本が勝利を収めた時代です。 ▶ 最強のモンゴル軍に負けないアイヌ民族
「文永の役」の10年前に、北海道アイヌ民族はモンゴル人と戦い、そして樺太まで進出していきました。 ▶ アイヌ民族と和人の戦い
しかし、当時の鎌倉時代は、鉄を製造する技術を発達してきていたため、アイヌ民族は、幕府の支援を受けた松前軍の鉄砲隊に敗れ、行き場を失うことになっていきました。 ▶ アイヌ民族と松前藩の対立
幕府からアイヌ交易権の独占を許された松前藩は、アイヌ民族に不利益な条件を突きつけました。それまで、干鮭100尾と米20kgを交換していたが、それを3分の1の7kgに変更するという、アイヌにとって非常に不利な条件だったのです。 ▶ シャクシャインの戦いアイヌ民族の首長シャクシャインを中心に、松前藩への蜂起が勃発。それに対し、松前藩は、シャクシャインのお酒に毒をもり、毒殺を試みたと言われています。 ▶ クナシリ・メナシの戦い
1789年、「クナシリ・メナシの戦い」は東蝦夷地で起きたアイヌの蜂起。国後の漁場で過激な労働を強いられたアイヌ民族が蜂起して、和人商人を襲い殺害した。それに対し、松前藩は『我々の後ろには徳川幕府がついている』といって首長を脅し、中心人物を処刑。 ▶ 北海道旧土人保護法制定
明治維新後も似たような状況が続き、明治32年(1899年)、北海道旧土人保護法(北海道アイヌを保護する目的で定められた日本に法律)が制定されました。 ▶ ウポポイ(民族共生象徴空間)誕生令和2年(2020年)、「ウポポイ(民族共生象徴空間)」が、北海道白老町ポロト湖畔に誕生します。アイヌ民族の文化を後世に伝えていくことを国が進めています。アイヌの人々は1万人くらいになってしまいましたが、今一度敬意をもって、アイヌ民族と向き合っていかなければと思います。 ▶ 松浦武四郎氏の提案「北加伊道」
松浦武四郎氏は、アイヌ語の意味「私が生まれた土地」の想いをこめて「北加伊(ホッカイ)道」とという名を候補のひとつにしました。松浦武四郎氏は6回も蝦夷地を探検し、アイヌの人々がいなければ、この地の開拓はあり得なかったとさえ感じそうです。自然に対する逞しい姿、頼んだことに絶対裏切らない性格、穏やかで、常に全てに神が宿り神とともに暮らしているアイヌ民族の永久の幸福を祈って、「北加伊道」と地名の候補にしたのです。
▶ 樺戸集治監について▶ 明治4年(1871年)の廃藩置県廃藩置県とは、明治維新期の明治4年(1871年)7月14日に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革です。 ▶ 北海道開拓使・島義勇 主席判官島 主席判官は、当時広大な原野であった「札幌市」の開発の磯を築き上げた北海道開拓使。札幌を一望したコタンベツに社殿を設けることを計画し、開拓三神が祀られ、後に北海道神宮となります。
▶ 反乱の首謀者たちが収監された監獄が集治監佐賀、熊本、福岡、山口など、各地で反乱が勃発。明治10年(1877年)西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱「西南戦争」。結果、政府に鎮圧され、重罪人となった首謀者たちが収監された監獄が集治監。 ▶ 国立刑務所の設立監獄・牢獄が最初にできたのが宮城県。そして2番目が東京拘置所、3か所目にできたのが北海道樺戸集治監。明治14年(1881年)開庁。樺戸集治監では、北海道開拓のために、道路建設や炭鉱採掘などの囚人の労働が強いられました。 ▶ 初代典獄(てんごく)月形潔 氏
未開の原野が広がる北海道の立地調査から立ち会い、初代典獄となったのが月形潔 氏。月形潔 氏を団長とする集治監選定の調査団が、羊蹄山麓、十勝川流域、石狩川の須部都地方などの候補地を訪れ、綿密に調査した結果、現在の月形町を候補地に選定。 ▶ 空知の道路開削をした樺戸集治監の囚人たち
上川道路、峰延道路、月形町から当別町、月形町から増毛町などの道路開削を次々に行いました。樺戸集治監、空知集治監(三笠市)が中心となって、旭川市までの道路を開きます。上川郡の永山町、旭川市東旭川町、当麻町と続き、屯田兵の入植があり屯田兵舎を建てたのは樺戸集治監の囚人たちです。新十津川町から雨竜町、北竜町、増毛町へ抜ける道路は、樺戸集治監の囚人たちによって造られました。 ▶ 国立刑務所の総本家・樺戸集治監樺戸集治監が北海道における国立刑務所の総本家の本監であり、次に作られtのが空知集治監(三笠市)、釧路集治監(釧路市)、そして釧路集治監の分監が網走集治監で、その分監が十勝集治監(帯広)となっています。 ▶ 編集者提供・参考動画『空知の大地~樺戸道路が繋いだ歴史~紹介』
櫻庭氏が登場する動画がYoutubeにありますので、編集者よりご紹介します。
▶ 父親の最後の言葉『ありがとう』
私は短大卒業後、農業を始め、同時に隣町の嫁をもらいました。結婚生活は貧しく、結婚した年から36歳まで冬寒期には毎年、本田技研鶴岡・狭山工場(自動車製造)や土木作業員などに出稼ぎにいきました。
▶ 故郷を愛し、国を愛すること
北海道開拓の父・クラーク博士の言葉、『故郷を愛し、国を愛し、この老人のわたしのように、少年よ大志をいだけ!』。70歳近い私ではありますが、クラーク博士のように志をもって、若者の手本になれるような気持ちで、努力していこうと思っております。 ▶ 繋がりの中ではとても大きな事ができそう
来年2020年、標茶町でフォーラムが開催されます。標茶町はアイヌ民族の聖地であり、アイヌ民族の集落があり、アイヌ民族の伝統的神事ペカンベ祭りなどが行われています。
北海道開拓の歴史を築き上げてきた先人の方々の、
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