ひまわり大学講座・櫻庭誠二氏「樺戸集治監と北海道開拓」

2019/08/18 15:30 に 寺内昇 が投稿   [ 2019/08/18 15:31 に更新しました ]
2019年8月19日(月)

8月8日(木)10:00〜、北竜町ひまわり大学講座にて、元月形町長・櫻庭誠二様を講師としてお迎えし、「樺戸集治監と北海道開拓」と題する講座が、公民館大ホールにて開催されました。

目次

  1. 1 ▶ 櫻庭誠二プロフィール
    1. 1.1 ▶ 略歴
    2. 1.2 ▶ 表彰
  2. 2 ▶ 櫻庭誠二様のお話
    1. 2.1 ▶ 黄倉良二氏、そして篠田久雄氏の貴重な出会い
    2. 2.2 ▶ 我が町の日本一!
    3. 2.3 ▶ 日本一元気な返事の町を目指して
  3. 3 ▶ 縄文文化人の遺伝子を持つアイヌ民族
    1. 3.1 ▶ 縄文人骨に残るDNA研究
    2. 3.2 ▶ 北の縄文文化
    3. 3.3 ▶ 元寇
    4. 3.4 ▶ 最強のモンゴル軍に負けないアイヌ民族
    5. 3.5 ▶ アイヌ民族と和人の戦い
    6. 3.6 ▶ アイヌ民族と松前藩の対立
    7. 3.7 ▶ シャクシャインの戦い
    8. 3.8 ▶ クナシリ・メナシの戦い
    9. 3.9 ▶ 北海道旧土人保護法制定
    10. 3.10 ▶ ウポポイ(民族共生象徴空間)誕生
    11. 3.11 ▶ 松浦武四郎氏の提案「北加伊道」
  4. 4 ▶ 樺戸集治監について
    1. 4.1 ▶ 明治4年(1871年)の廃藩置県
    2. 4.2 ▶ 北海道開拓使・島義勇 主席判官
    3. 4.3 ▶ 反乱の首謀者たちが収監された監獄が集治監
    4. 4.4 ▶ 国立刑務所の設立
    5. 4.5 ▶ 初代典獄(てんごく)月形潔 氏
    6. 4.6 ▶ 空知の道路開削をした樺戸集治監の囚人たち
    7. 4.7 ▶ 国立刑務所の総本家・樺戸集治監
    8. 4.8 ▶ 編集者提供・参考動画『空知の大地~樺戸道路が繋いだ歴史~紹介』
  5. 5 ▶ 父親の最後の言葉『ありがとう』
  6. 6 ▶ 故郷を愛し、国を愛すること
  7. 7 ▶ 繋がりの中ではとても大きな事ができそう
  8. 8 ▶ 写真(27枚)はこちら >>
  9. 9 ▶ 関連記事

北竜町高齢者大学・ひまわり大学 
北竜町高齢者大学・ひまわり大学

櫻庭誠二氏講演資料 
櫻庭誠二氏講演資料


司会進行の北竜町教育委員会・岸直樹さんによる、櫻庭誠二様のご紹介です。


北竜町教育委員会・岸直樹さん 
北竜町教育委員会・岸直樹さん


櫻庭誠二プロフィール

略歴

櫻庭誠二様は、新十津川町出身、昭和25年4月生まれの69歳。酪農学園大学酪農学科卒業後、家業の農業に従事。月形町農業委員・篠津中央土地改良区理事等の公職を歴任。平成7年(1995年)に月形町議会議員に当選。その後、多くの町民から推挙され、平成16年(2004年)10月に月形町長に就任。以来3期12年、町政の舵取り役を務め、昨年、平成30年(2018年)10月、任期満了をもって町長を退任。現在、法務省矯正局広報大使(名誉典獄)、月形樺戸博物館名誉館長として地域開拓の歴史伝承役としてご活躍中。

表彰

・平成28年(2016年)農林水産省農村振興局長表彰受賞
・平成29年(2017年)法務大臣感謝状受賞


会場の様子 
会場の様子


櫻庭誠二様のお話

櫻庭誠二氏(元月形町町) 
櫻庭誠二氏(元月形町町)


黄倉良二氏、そして篠田久雄氏の貴重な出会い

今日、最前列にいらっしゃる黄倉良二 元JAきたそらち代表理事組合長、そして 篠田久雄 元沼田長町は、私の大先輩です。

平成7年(1995年)に月形町議会議員になった時、役場職員が、北海道大学の森傑 教授の講座受講を勧めてくれました。その講座は、法学部の教室で6か月間に亘り、1年12回講座が開かれたものです。1年目は面白かったのですが、2年目にはそれ程でもなくなり、3年目は辞めようと思うほどになっていました。

そんな時、 沼田町・篠田 町長が沼田町の雪中米の具体的なお話をしてくだいました。『北海道のどこでもやってないことを私はやっている』というインパクトのあるお話でした。

次の年に開催された農協組合員講座で、当時組合長だった黄倉良二さんの講座『北竜町が水を守ること、稲を守ること、命を守る農業を行っている』というお話を拝聴したのです。近隣の町が、リゾート開発に走っていた時代に、黄倉組合長を筆頭に、町の人々がリゾート開発に反対していた。すごいことをやっているのだと感動しました。

物事の主導権を握る人が町のトップであり、農協のトップ。そのお二人が、責任をもって次の時代を創っていくという決断力に、私は憧れました。

我が町の日本一!

私が町長になった平成16年(2004年)の翌年、市町村長研修セミナーが実施され、隣席が、知内町の脇本哲也 元町長でした。

脇本町長のお話で『我が町は、ニラ栽培が日本一! 牡蠣の養殖が日本一! 牡蠣の養殖は、普通は湾で行うが、我が町は外洋で養殖を行っているのが日本一! 更にカレイで日本一! カレイは松葉鰈で日本一だ!』と、おっしゃる。

『お前の町には、日本一はないのか?』と聞かれ、思い起こすと我が町にもありました。月形という町の名前は、樺戸集治監の初代典獄(てんごく)の名前・月形潔氏から名付けられたのです。これは、全国でもオンリーワン!

まだあります! 集治監の1,000人の受刑者が参加した運動会に招待された時、所長が言うには『平均前科率3.8犯。ほとんどの受刑者が覚醒剤犯罪者で、暴力団更生比率56.3%で日本一です!』と。

刑務所を出所した人がもう一度戻りたい日本一!です。北海道の刑務所は、冬は完全暖房で、夏は冷房がなくても涼しい所です。さらに食べ物がいい。今は、一人部屋でワンルームマンションです。警部官の性格がいい。北海道警部官は優しい。

日本一元気な返事の町を目指して

そして町長時代には「元気な返事をする」ことをモットーとしていました。様々な式典で名前を呼ばれた時は、元気な声で『はい!』。これに同調してくれたのが、制服組である、警察支署長、消防支署長、交通安全指導委員会会長等の方々。あっという間に広がって、多くの人々が『はい!』と元気よく返事をするようになりました。


熱の入る講演 
熱の入る講演


縄文文化人の遺伝子を持つアイヌ民族

縄文人骨に残るDNA研究

国立科学博物館によると、縄文人骨に残るDNA研究(女性人骨の高精度ゲノム分析)により、平均的日本人は縄文文化人の遺伝子を10%しか持っていないが、北海道アイヌの人々は70%保持、そして次が沖縄人で30%保持しているそうです。縄文文化は1,000年から2万年前までと言われています。

何故、本州の人々は、縄文文化人の遺伝子を10%しか持っていないのか。弥生文化の時に、大陸で米を作っていた人々が渡来し、縄文文化の人々と交わり、本州では縄文文化の血筋が薄れていったのです。

時代は、縄文文化、弥生文化、古墳文化、明日香、奈良文化、平安文化、鎌倉文化、室町、安土桃山文化と続きます。

北の縄文文化

北海道の時代は、縄文文化、 続縄文文化、 擦文文化、アイヌ文化と繋がっていきました。そこで、縄文文化人の遺伝子を70%保持したアイヌ民族が存続しているのです。

アイヌの人々は、性格が穏やかで優しくて、自然の中で逞しく生きながら人とは争わない種族です。


上着を脱いで力の入るご講演 
上着を脱いで力の入るご講演


元寇

西暦1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」、九州博多に来た「元(モンゴル帝国)」の蒙古襲来「元寇」で、神風が吹いて奇跡的に日本が勝利を収めた時代です。

最強のモンゴル軍に負けないアイヌ民族

「文永の役」の10年前に、北海道アイヌ民族はモンゴル人と戦い、そして樺太まで進出していきました。

モンゴル帝国は遊牧民族で、主力兵器として馬を乗りこなしていた世界最強の帝国だと言われています。アイヌ民族は、その最強のモンゴル軍に対して戦いを挑み、負けなかったのです。

アイヌ民族と和人の戦い

しかし、当時の鎌倉時代は、鉄を製造する技術を発達してきていたため、アイヌ民族は、幕府の支援を受けた松前軍の鉄砲隊に敗れ、行き場を失うことになっていきました。

応仁の乱の10年前の1457年、北海道が蝦夷と呼ばれていた頃、アイヌ民族と和人の戦い「コシャマインの戦い」があり、和人が道南に進出し、集落(道南十二館・どうなんじゅうにたて)を作りました。

蝦夷地の和人社会において中心人物となった蠣崎氏(かきざき)が蝦夷地支配を進め、松前藩の始祖となっていきました。

アイヌ民族と松前藩の対立

幕府からアイヌ交易権の独占を許された松前藩は、アイヌ民族に不利益な条件を突きつけました。それまで、干鮭100尾と米20kgを交換していたが、それを3分の1の7kgに変更するという、アイヌにとって非常に不利な条件だったのです。

幕藩体制が成立する前は、蝦夷アイヌ民族の生活は、狩猟、漁労、採種で、生活に足りないものは、交易で入手していました。津軽海峡を渡り鉄を仕入れたり、樺太に渡り中国の絹織物の古着を交換するなどして、それを江戸に売っていました。江戸京都では絹織物は作ってなかったので、それが坊さんの袈裟や公家の着物になったり江戸錦として重宝がられていました。こうしたアイヌの自由な貿易を松島藩は、交易独占権により制限したのです。

シャクシャインの戦い

アイヌ民族の首長シャクシャインを中心に、松前藩への蜂起が勃発。それに対し、松前藩は、シャクシャインのお酒に毒をもり、毒殺を試みたと言われています。

クナシリ・メナシの戦い

1789年、「クナシリ・メナシの戦い」は東蝦夷地で起きたアイヌの蜂起。国後の漁場で過激な労働を強いられたアイヌ民族が蜂起して、和人商人を襲い殺害した。それに対し、松前藩は『我々の後ろには徳川幕府がついている』といって首長を脅し、中心人物を処刑。

アイヌの若者は、常に和人の手先として使われ、略奪と和人が持ち込んだ病気によって50万人いたと言われるアイヌの人々がほとんどいなくなっていきました。

北海道旧土人保護法制定

明治維新後も似たような状況が続き、明治32年(1899年)、北海道旧土人保護法(北海道アイヌを保護する目的で定められた日本に法律)が制定されました。

アイヌの人々を「旧土人」と呼び、アイヌ民族が住んでいた土地を北海道のものだとして無償で取り上げ、和人が誰も手を出さないような土地を与えて農業を強制しました。こうしたことが、旧土人保護法の元で行われ、およそ100年ほど続いたとのことです。

こうした沢山の苦難を強いられたアイヌの人々の辛い想いをしっかりと受け止めて、これからの地域づくりに取り組んでいかなければならないと思います。

ウポポイ(民族共生象徴空間)誕生

令和2年(2020年)、「ウポポイ(民族共生象徴空間)」が、北海道白老町ポロト湖畔に誕生します。アイヌ民族の文化を後世に伝えていくことを国が進めています。アイヌの人々は1万人くらいになってしまいましたが、今一度敬意をもって、アイヌ民族と向き合っていかなければと思います。

松浦武四郎氏の提案「北加伊道」

松浦武四郎氏は、アイヌ語の意味「私が生まれた土地」の想いをこめて「北加伊(ホッカイ)道」とという名を候補のひとつにしました。松浦武四郎氏は6回も蝦夷地を探検し、アイヌの人々がいなければ、この地の開拓はあり得なかったとさえ感じそうです。自然に対する逞しい姿、頼んだことに絶対裏切らない性格、穏やかで、常に全てに神が宿り神とともに暮らしているアイヌ民族の永久の幸福を祈って、「北加伊道」と地名の候補にしたのです。

1869年、松浦武四郎氏は「北加伊道」を含む6つを候補とする意見書を政府に提案しました。そして、政府によって現在の「北海道」という名になりました。


演壇の様子 
演壇の様子


樺戸集治監について

明治4年(1871年)の廃藩置県

廃藩置県とは、明治維新期の明治4年(1871年)7月14日に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革です。

北海道開拓使・島義勇 主席判官

島 主席判官は、当時広大な原野であった「札幌市」の開発の磯を築き上げた北海道開拓使。札幌を一望したコタンベツに社殿を設けることを計画し、開拓三神が祀られ、後に北海道神宮となります。


ジェスチャーを交えて 
ジェスチャーを交えて


反乱の首謀者たちが収監された監獄が集治監

佐賀、熊本、福岡、山口など、各地で反乱が勃発。明治10年(1877年)西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱「西南戦争」。結果、政府に鎮圧され、重罪人となった首謀者たちが収監された監獄が集治監。

国立刑務所の設立

監獄・牢獄が最初にできたのが宮城県。そして2番目が東京拘置所、3か所目にできたのが北海道樺戸集治監。明治14年(1881年)開庁。樺戸集治監では、北海道開拓のために、道路建設や炭鉱採掘などの囚人の労働が強いられました。

初代典獄(てんごく)月形潔 氏

未開の原野が広がる北海道の立地調査から立ち会い、初代典獄となったのが月形潔 氏。月形潔 氏を団長とする集治監選定の調査団が、羊蹄山麓、十勝川流域、石狩川の須部都地方などの候補地を訪れ、綿密に調査した結果、現在の月形町を候補地に選定。

羊蹄山麓は、すでに民間の開拓が開始されていたし、十勝川流域は遠浅で大型の船が入れない理由で却下され、須部都地方(現在の月形町)が選ばれました。月形町は、背後は樺戸や増毛の山地、前には石狩川が広がり、石狩川の水運が活用できることが選択理由となりました。

空知の道路開削をした樺戸集治監の囚人たち

上川道路、峰延道路、月形町から当別町、月形町から増毛町などの道路開削を次々に行いました。樺戸集治監、空知集治監(三笠市)が中心となって、旭川市までの道路を開きます。上川郡の永山町、旭川市東旭川町、当麻町と続き、屯田兵の入植があり屯田兵舎を建てたのは樺戸集治監の囚人たちです。新十津川町から雨竜町、北竜町、増毛町へ抜ける道路は、樺戸集治監の囚人たちによって造られました。

札幌の西北を流れる「新川」も樺戸集治監の囚人の手によって創り上げられた川。新川の水位が下がったことによって、札幌市は190万の大都市になりました。

こうした囚人たちの過酷な労働があればこそ、空知の開拓があることをけっして忘れてはならないと思います。

国立刑務所の総本家・樺戸集治監

樺戸集治監が北海道における国立刑務所の総本家の本監であり、次に作られtのが空知集治監(三笠市)、釧路集治監(釧路市)、そして釧路集治監の分監が網走集治監で、その分監が十勝集治監(帯広)となっています。

編集者提供・参考動画『空知の大地~樺戸道路が繋いだ歴史~紹介』

櫻庭氏が登場する動画がYoutubeにありますので、編集者よりご紹介します。

・ナレーション:石橋凌 氏
・樺戸集治監名誉館長:櫻庭誠二 氏
・NPO法人炭鉱の記憶推進事業団理事長・吉岡宏高 氏
・美唄市長・髙橋幹夫 氏

北海道開拓の礎となった樺戸道路が、囚人たちの壮絶な労働と多くの犠牲の上に築かれてたことが語られていきます。さらに、そらち炭鉱の歴史と美唄の発展を描くストーリーです。



父親の最後の言葉『ありがとう』

私は短大卒業後、農業を始め、同時に隣町の嫁をもらいました。結婚生活は貧しく、結婚した年から36歳まで冬寒期には毎年、本田技研鶴岡・狭山工場(自動車製造)や土木作業員などに出稼ぎにいきました。

両親と私は、3人共に同じ干支(虎)です。性格が似ている母親とは特に意見が合わなかった。亡くなって初めて、子を思う親の気持ちが理解できたように感じました。母親が亡くなってから10年後に父親が旅立ちました。

父親の最後の言葉が『今まで世話になったなぁ。家族仲良く暮らすんだよ』。そして『ありがとう』の言葉を最後に。。。


笑顔の櫻庭誠二氏 
笑顔の櫻庭誠二氏


故郷を愛し、国を愛すること

北海道開拓の父・クラーク博士の言葉、『故郷を愛し、国を愛し、この老人のわたしのように、少年よ大志をいだけ!』。70歳近い私ではありますが、クラーク博士のように志をもって、若者の手本になれるような気持ちで、努力していこうと思っております。

一番大切なのは「故郷を愛し、国を愛すること」です。

父親が亡くなってつくづく感じたことは、両親が贅沢もせず、子ども達のために情熱をもって守り抜いた土地を大切にすることです。我が地域のことを今一度学び直して、樺戸集治監の歴史、アイヌ民族の歴史、北海道の歴史を掘り起こして、後世に伝え繋げていくことが大切だと強く思いました。

私は、刑務所で特殊面接員という仕事をしています。
『私は、179市町村の町長がいる中で、唯一ひとり出稼ぎをした町長だ。人生に無駄なことはひとつもない。おれは自慢できるんだ』。
『君たちがここに入ってきたことは、人に褒められた経験ではない。ここから、もう一度昔の世界に戻るのではなくて、ここから、人のために、志をもって生きていくとしたら、今までの経験が絶対に活きていくことになる』という話をいつもしています。

繋がりの中ではとても大きな事ができそう

来年2020年、標茶町でフォーラムが開催されます。標茶町はアイヌ民族の聖地であり、アイヌ民族の集落があり、アイヌ民族の伝統的神事ペカンベ祭りなどが行われています。

標茶町のフォーラムでは、知里幸恵さんの アイヌ神謡集『梟の歌(銀の雫降る降るまわりに 金の雫降る降るまわりに)』を、標茶町出身の髙橋恵子さん(開拓農家の娘さん)が朗読し、BGMは、札幌交響楽団のコンサートマスターが演奏することが予定されています。

私達、一人ひとりは何もできませんが、繋がりの中ではとても大きな事ができそうな気がします。それが、わたしの中の大志であり、志です。

北竜町さんとも、より緊密な繋がりを祈念いたしております。私は握ったら離しません。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。ご清聴ありがとうございました」と、沢山の熱いをお話くださった櫻庭氏です。


会場の様子 
会場の様子


北海道開拓の歴史を築き上げてきた先人の方々の、
創造を絶するような行動力と脈々と受け継がれる熱き魂に、
大いなる尊敬と感謝と祈りをこめて。。。


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◇ 撮影・編集=寺内昇 取材・文=寺内郁子