2012年6月4日(月)
今年2012年、北竜町は開町120年を迎えます。北竜町は、その名が示すように、竜の町。町のシンボルである北竜門には、2匹の青龍が町全体を見守っています。そして今年は辰年。120年の時を超えて、青龍が、この地に命を与えられてから、10回目が巡ってきた、記念すべき年です。
私達夫婦は、120年を記念して、北竜町開拓移民団の故郷である、旧・本埜村(現・千葉県印西市)を訪れました。
この旅によって、祖先への深い感謝と、現代から未来へ脈々と受け継がれているの偉大な開拓者の魂を感じることができました。
◆吉植庄一郎氏を団長とした開拓移民団により「雨竜村字和」が誕生!
明治26年(1892年)5月、千葉県印旛郡埜原村から渡道された吉植庄一郎氏を団長とする25戸の開拓移民団によって、この北竜の地に開拓の鍬がおろされました。
吉植庄一郎氏(北竜町郷土資料館)
当時、千葉県印旛沼周辺は低地であり、周辺の川から水が入りやすい地形。「内水」「外水」と呼ばれる水害にみまわれ、農家の人々から恐れられていました。
水害によって農家や農作物が流され、農業を続けていくことが困難な農家も多かった当時、明治政府は、旧士族を中心に北海道の開拓を進めていました。
そこで、吉植庄一郎氏が、新天地・北海道へ、開墾にと立ち上がったのです。
単身で北海道に渡航し、現地調査を終えて帰郷。その後開拓移民団を結成して、北海道の新天地へと向かいました。
船で小樽に渡り、鉄道で札幌に到着。札幌から荷車で数日間かけて、雨竜原野へと向かいました。開拓開始15日後、火事で小屋や食料を焼失するなど、降り掛かってくる多くの困難を克服。数年後、雨竜村字和の地で500haの開墾に成功し、約100戸余りもの新しい村が完成。
開拓の地である「和(やわら)」という名前は、千葉開拓団の故郷である「埜原村(やわらむら)」にちなみ、村民全員の和を大切にしたいという願いをこめて付けられたものだそうです。
◆ 千葉開拓団団長・吉植庄一郎氏の長男・庄亮氏によって受け継がれる吉植農場の魂
開拓5年後の1898年(明治31年)、安定してきた開拓団の生活にまたもや襲いかかってきた治水問題。石狩川の氾濫を中心とした北海道大水害です。
このことをきっかけとして、庄一郎氏は、開拓の速成、治水事業の進捗などを働きかける活動へと進んでいきました。
当時北海道一の新聞社「北海タイムス新聞社」(後に北海道新聞)の理事に就任後、政治活動に奔走。海外渡航などを経験後、庄一郎氏39歳の時、衆議院議員に当選。その後農業政策にめざましい活躍を発揮。
その中で、1922年(大正11年)57歳の時、利根川沿岸の治水問題に取り組んでいた庄一郎氏が残した功績は、印旛沼一帯の農業を大きく前進させた「安食水門」の完成でした。
庄一郎氏が、水害の脅威から埜原村を離れてから北海道開拓を目指してから挑んだ30年間の歳月。
そして議員活動においては、1904年(明治37年)の初当選から1933年(昭和8年)までの29年間の、農業政策をはじめ、たくさんの偉大なる業績を残されました。
議員引退後は、本埜村下井の実家にもどり、農業をしながら静かに晩年を過ごされたそうです。
その後、農業は、庄一郎氏の息子・庄亮氏によって受け継がれていきます。
吉植庄亮氏は、1884年(明治17年)、吉植庄一郎氏の長男として本埜村下井で誕生。
病弱だった庄亮氏は、ご両親とともに北海道に渡ることができず、祖父母のもとで育てられました。
しかし、作歌活動や剣道などにおいて、多彩な才能を発揮。
1921年(大正10年)37歳の時、中央新聞入社し、文芸部長に就任。そのころから、庄亮氏は、歌人として一躍有名になり、伊藤左千夫、古泉千樫とともに、千葉県三大歌人の一人であり、北原白秋との親交も深かったと言われています。
1924年(大正13年)、新聞社を退社し、印旛沼に帰り、吉植新田の開墾事業に着手。疲労のため病気療養。回復後、再び農業に取り組み、51歳の1935年(昭和10年)には、全耕地60町歩の開墾を完成し、自作農日本一の経営者となりました。
開墾の大事業に着手した庄亮氏は、農村振興と農民救済を自作農民自ら訴える決意をして、衆議院議員に立候補し当選。庄亮氏は、終戦までの衆議院選挙で3回当選を果たしました。
1943年(昭和18年)、父・吉植庄一郎氏(79歳)逝去。
1947年(昭和22年)、農地解放令により四町九反歩を残し、六十町歩の耕地をすべて小作人に開放。「吉植新田」という地名は現在も尚、残されているそうです。
庄亮氏の晩年は、歌を読みながら過ごし、1958年(昭和33年)、74歳の生涯を静かに閉じられました。
吉植家のお墓
◆ 本埜村と北竜町の交流
吉植庄一郎氏率いる移民団が開拓した北海道・雨竜村(現・北竜町)と吉植家の故郷である本埜村との交流は、北竜町開基80年記念事業(1973年・昭和48年)を切っ掛けとして、およそ40年くらい前から始まりました。
その頃から、役場、農業委員会、農協、商工会等の団体が、それぞれ独自に交流を行なっていたとのことです。
また、小学校間においても、北竜町の真竜小学校と本埜村の三つの小学校(現在の印西市立本埜第一小学校、印西市立本埜第二小学校、印西市立滝野小学校)は姉妹校。
およそ20年間に渡り、本埜村が合併して印西市となるまで、冬期は、本埜村の小学校の子供たちが北竜町に訪れ、北海道のスキーを体験し、夏期は、北竜町の子供たちが、本埜村を訪れ千葉県の夏を体験するなどの交流があったそうです。
◆ 寺田昭一さん(PHP研究所)が繋ぐ「北竜町」と「本埜村」との架け橋
2012年5月6日(日)、私達夫婦は、月刊誌『歴史街道』元編集長の寺田昭一さんとご一緒させて戴き、現在の本埜村(現在・印西市)を訪れました。
寺田さんは、現在(株)PHP研究所の地域経営研究センターシニア・コンサルタント。全国各地の市町村と連携して、地域に埋もれた歴史・文化を掘り起こして、地域遺産を活かした地域づくりの為に、日本中を飛び回っていらっしゃいます。
寺田さんが、現在プロデュースされている、北海道地域創造フォーラムは、2008年(平成20年)に第1回が伊達市でスタート。その後、松前町、稚内市、月形市で開催され、今年2012年の第5回フォーラムは、9月8日(土)に北竜町での開催が予定されています。
時は遡り、1996年(平成8年)、伊勢神宮内宮ご鎮座2000年奉祝記念事業として、PHP研究所企画シンポジウム「コメと日本人と伊勢神宮」を寺田さんがプロデュースされました。
シンポジウム後は、「コメと日本人と伊勢神宮」の関連記事が、5年間に渡り月刊誌『歴史街道』に連載されたのです(文・上之郷利明、1994年7月号~1999年1月号)。
連載の取材で、寺田さんは、本埜村と北竜町を訪問され、幾度か行き来をされました。
本埜村訪問の際には、吉植庄一郎氏の子孫であるご家族の方々や関係者の方々とお会いされたそうです。
寺田さんは、記憶をたどりながら、本埜村を案内してくださいました。
◆ 吉植家子孫である吉植一貫さんを訪問
吉植庄一郎氏から数えて三代目となる、今は亡き吉植啓夫(ひろお)さん。吉植啓夫さんは、農業組合法人「村悟空(そんごくう)」を仲間とともに営みながら、無農薬の米作りをしていた農業経営者。
吉植啓夫さんのご長男・吉植一貫さんが、現在農業を継いでいらっしゃいます。
吉植一貴さん(左) 寺田昭一さん・PHP研究所(右)
お父様・吉植啓夫さんがご逝去されたのは、一貴さんの東京農業大学卒業式の前日。その後、お母様と二人で、お父様の米作りの栽培方法をそのまま受け継いでいらっしゃるそうです。
吉植一貴さんは、7人の生産者の方々とともに「有限会社 ちば緑耕舎(代表取締役 大野久男)」で特別栽培米・有機栽培米を生産していらっしゃいます。有機栽培の時には、雑草対策として「紙マルチ」を敷きながら田植えを行なっているとのことです。
「大学卒業後、12年前から農業に携わっています。
現在は、11~12ヘクタールの水田に「こしひかり」を栽培しています。
農業はやることは同じでも天候の変化によって左右される所が大きいので、大変難しいです。
半無農薬が9割、無農薬が1割。
1.34ヘクタールが有機栽培で、紙マルチを敷いて雑草対策を行なっています。紙マルチは、風が吹いても、雨がふっても作業ができないので、本当に穏やかな日を選んで行います。敷いてしまえば、2~3ヶ月で自然と溶けて、土に還り、水田の栄養分になっていきます。敷く紙は、有機栽培用の特別な製法のもので、活性炭で黒く塗っています。
自然を相手にする農業は、毎日が試行錯誤。
失敗もあれば、分からないことも沢山あります。先輩の方々のご指導を受けながら、前向きに体当たりで農業に向きあっています」一貴さんは、ゆっくりと穏やかにお話されました。
左:現在の総ひのき造りの吉植家 右:水稲
吉植啓夫さん曰く、
「食糧は人間にとって最も大切なもの、命そのものではないですか。
コメは単に食べるものではない、人間の命を育んでいるんです。
私達は過去の長い歴史の中で、コメ作りを通じて自然や地球と、どのように接したらいいかを学んできた。
自然に対する畏敬の念、感謝、祈り、自然との共生。
私達は大量生産、大量消費の産業を通じて、多くのものを失ってきた。
そこから私達が享受した以上の莫大なツケを、これから人間は支払わなければならない。
そのとき、この地球を守っているのは、われわれ農業しかないんですよ」
(『歴史街道(1997年8月号)』「コメと日本人と伊勢神宮第45回・ある農業の村で聞いた二つの意見」より引用)
人間の命を育む米に対する吉植啓夫さんの魂が、息子さんの一貴さんに農業を通して、今尚受け継がれていることを実感しました。
◆ 当時をしのぶ史跡の数々
・吉植家母屋:
敷地内には、昔からの母屋と「歌人吉植庄亮生誕の地」の碑があります。
左:吉上庄亮氏の碑 右:吉植家の母屋
・吉植家のお墓をお参り:
田んぼに隣接して立ち並ぶ墓石。田んぼをしっかりと見守っているようでした。
ご先祖様への感謝をこめて、お祈りさせていただきました。
吉植家墓参
・印旛水門(安食水門):
吉植庄一郎は、国会議員として、利根川の改修や安食水門の建設問題に取り組んでいました。安食水門(現・印旛水門)(1922年・大正11年完成)の完成により、外水(日光水)の被害が防止され、印旛沼一帯の農業を大きく前進させる結果となりました。これを機に、ご息子の庄亮氏が「吉植農場」の開墾事業に取り組んでいきました。
印旛水門と碑
・本埜村第二小学校・校歌(吉植庄亮作詞):
千葉県三大歌人の一人といわれた吉植庄亮氏は、短歌だけでなく、作詞家でもあり、1937年(昭和12年)に庄亮氏によって作詞された本埜村第二小学校の校歌は、今に歌い継がれています。
「大沼の 印旛の沼の 心ひろらに はるの日の 光のごとく 常に明るく」校歌より
印西市立本埜第二小学校
・宗吾霊堂(そうごれいどう):
領主堀田氏の重税にあえぐ農民のため、将軍に直訴、処刑されたという佐倉惣五郎の霊が祀られています。宗吾霊堂の一角に頌徳碑が建立されており、碑文には、吉植庄一郎が印旛沼一帯の治水問題に取り組み、安食水門建設に貢献したことを讃え、感謝の意が記されています。その脇には、息子である歌人・吉植庄亮氏の歌碑が建立されています。
「紅水鶏(べにくいな)まだしづけくも なきいてで 見渡すかぎり 青田夕風(あおたゆうかぜ)」
宗吾霊堂(そうごれいどう)
(左)吉植庄一郎氏の功績を称える頌徳碑 (右)吉植庄亮氏の歌碑
私達が訪れた本埜村は、ゴールデンウィークの真っ只中、田植えは真っ盛り!
緑の稲が、力強くも、ゆらゆらと風にゆれ、田んぼの水を緑に染めていました。
120年前、吉植庄一郎氏が、北の大地・北海道に鍬をおろし、今尚、受け継がれているもの。
それは、「命を育む農の魂」「食べものは生命(いのち)の精神」。
北竜町では、先人の方々の想像を絶する努力の積み重ねにより、「食べものはいのち(生命)」の精神を守り抜くため、工場もない、スキー場もない、自然豊かな大地が広がっています。
北竜町のお米は減農薬栽培(農薬削減率50%)、さらに水稲の生産組合として、生産情報公表農産物JAS規格を全国で初めて取得。現在でも、同条件で同規格を取得している組織は日本で唯ひとつです。農民の心を尽くして、安心・安全な稲作に取り組んでいます。
一方、旧・本埜村では、吉植一貴さんが認定農家として参加している「(有)ちば緑耕舎(代表取締役 大野久男)」が、特別栽培米(農薬削減率73%)、JAS有機栽培米を生産し、安心・安全な農業と環境保全に取り組んでいます。
本埜村と北竜町には、それぞれ農業の形は違えども、そこに流れ、受け継がれている思想・魂は、同じように感じます。
◆ お米に秘められた日本人の魂・稲魂(いなだま)
日本人は、お米を主食とし、毎年収穫されたお米を神様に奉納します。
そして日本人は「お米は、単なる食べ物ではなく、お米そのものを神の存在として崇拝する」
世界唯一の民族なのです。
稲作と神様を結びつけた稲穂の国・日本。その象徴が伊勢神宮。
伊勢神宮は、農業の神様であり、神宮でのお米に関する祭祀は、年間約1,500回にも及ぶとのこと。
稲穂に込められた、農民の様々な想いである特別なエネルギーや、新たなる命のエネルギーである稲魂を祀ります。
一粒一粒の米に、稲魂を感じ、神を感じ、感謝する日本人の神聖なる心は、
脈々と生き続け、次の世代へと受け継がれています。
自然を愛し、自然と調和し、自然と共存して生きる日本人
神宿り、命育むお米を作り続ける日本人の魂に
大いなる尊敬と感謝と祈りをこめて。。。
北竜町・イチイの森に建立されている吉植庄亮氏の歌碑
(1996年11月3日建立)
「たまきはる命を愛しむ心わけり 和がなす業の大き尊さ」
(吉植庄亮氏の歌集「寂光」より)
◆ 参考資料
・
森山昭(旧・本埜村立本埜第二小学校・校長)(2008年)『郷土の先覚者・吉植庄一郎・印旛沼の水害との戦い』※
・森山昭(旧・本埜村立本埜第二小学校・校長)(2008年)『郷土の先覚者2・吉植庄亮・印旛沼を開墾した人』
・上之郷利昭(1996年)『コメと日本人と伊勢神宮』PHP研究所
・上之郷利昭・文『歴史街道(1994年7月号~1999年1月号)』PHP研究所
・加藤愛夫(1985年)『いたどりの道・北竜町のルーツ』加藤愛夫遺稿刊行委員会
・北竜町史編さん委員会(1968年)『北龍町史』(第1巻)北竜町
・本埜村史編纂委員会、本埜村教育委員会(編)(2008年)『本埜の歴史』本埜村教育委員会
・『サライ』大型特集・米の力・ひと粒に七人の神が宿る(2011年10月号)小学館
※ 『郷土の先覚者・吉植庄一郎・印旛沼の水害との戦い』について、著者の森山昭先生より、北竜町ポータルへの転載の許諾をいただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。全文はこちら。
◆ 関連ページ
・北竜町歴史年表(北竜町郷土資料館内・展示資料)
・北竜町開拓記念式並びに功労者表彰式 2012(2012年5月21日)
・北竜町開拓記念式並びに功労者表彰式 2011(2011年5月17日)
・開町120年記念・関連行事ほか(2012年度)ページ
◇ 撮影=寺内昇 取材・文=寺内郁子