北竜町の歴史 >
<北竜町史資料> 郷土の先覚者・吉植庄一郎(著:森山 昭)

小冊子  この著作は、森山昭先生(元・本埜村立本埜第二小学校 校長、千葉県印西市)が、小学生のための教材として、「郷土の先覚者・吉植庄一郎」氏について、平成20年(2008年)11月に上梓されたものです。
 吉植庄一郎氏は、明治26年(1893年)、千葉県から北竜町に入植した開拓団の団長です。
 北竜町開町120年の記念として、森山先生の許諾を戴き、この貴重な資料全文を「北竜町ポータル」に掲載させていただくことができました。心より深く感謝いたします。
(2012年9月吉日/寺内昇&郁子)



郷土の先覚者 吉植 庄一郎
印旛沼の水害との戦い
吉植庄一郎 先生(築比地宗彬 作)
@北竜町郷土資料館

はじめに

宗吾霊堂  印幡沼周辺の義民、佐倉惣五郎という人を知っていますか。
 江戸時代の初め頃、下総(しもふさ)佐倉藩主堀田正信が開始した増税・新税が領民の生活を苦しめ、その廃止を藩領の名主らが繰り返し求めていましたがことごとく拒否され、まさに一揆がいつおきるかという状況となっていました。
 この印旛沼(いんばぬま)一帯の領民の窮状を救うため、ついに承応二年(一六五三年)下総国(しもふさのくに)印旛郡公津村(こうづむら)(今の成田市公津)の名主惣五郎が単独で将軍に直訴しました。そのため、重税撤廃の要求はかなえられましたが、直訴という当時のきまりを破った惣五郎とその妻と息子四人は、処刑されてしまいました。
 その後、正信自身も改易とされたという話は、歌舞伎や講談でも有名な「地蔵堂通夜物語」として伝えられています。しかし、実際にあったことかどうかは、現在も確かめられてはいません。
 この万民のため一身を捨てて直訴するという義民惣五郎の物語は江戸時代の宝暦年間(一七五一年〜一七六三年)に益々各地に広まっていき、後期堀田氏の手により、宝暦二年(一七五二年)印旛郡公津に宗吾霊堂(そうごれいどう)として奉られ現在に至っています。
頌徳碑(しょうとくひ) その宗吾霊堂の一角に、一際目立つ大きな頌徳碑(しょうとくひ)が建立されています。碑文には、吉植庄一郎が利根川や印旛沼一帯の治水問題に取り組み、安食水門(あじきすいもん)建設に多大の貢献があり、印旛沼一帯の人々から感謝をこめて建てられたと記録されています。
 さて、印旛沼の治水問題に取り組んだ吉植庄一郎という人はいったいどんな人物だったのでしょうか。

※ 「地蔵堂通夜物語(じぞうどうつやものがたり)」は、江戸時代に書かれた書物で、作者不詳。義民物語が佐倉藩で起きたことと思われるきっかけになりました。
※ 「改易(かいえき)」とは、武士の身分を奪って家禄や屋敷を没収することです。江戸時代の刑の一つです。

▶ 一 水害との戦い

 印旛沼一帯は、江戸時代末の頃、幕府が米の増産施策のために、低地を農場として開墾を進めはじめてから、三年に一回は必ずと言っていいほど、大水害による被害があり、「内水」「外水(日光水)」と呼ばれて農民から恐れられていました。
 明治維新の二年前の慶応元年(一八六五年)庄一郎は、父庄之輔、母寿え子の長男として、下井新田(しもいしんでん)で生まれました。
 当時、庄一郎の実家は、十二町歩(十二ヘクタール)程の水田と印旛沼の湿地に生える蘆や茅を売買し、比較的裕福な生活を送っていました。
 しかし、豪雨が降る度、堤防が相次いで決壊し、ほとんどの農作物を一瞬にして失って苦しむ近隣の農家の姿を、幼い頃から目の当たりにしてきました。
 「この印旛沼の水害をなんとかしなければ村の農民の暮らしは楽にはならないの・・・」
 と祖父庄左衛門や父庄之輔から先祖代々の悲願として聞かされて成長していったのです。
 小学校・中学校をとび級するなど抜群の成績で卒業し、明治二十三年、二十五歳の時に、下植生郡(しもはぶぐん)土室村(つちむろむら)小学校校長として教壇に立っていました。しかし、ある日突然、退職し、二宮尊徳の農民運動や帝国禁酒会活動に力を注いでいくようになっていきます。
 さて、明治二十三年・二十五年に、印旛沼一帯を襲った大水害は、明治期最大のものでした。
 もともと、印旛沼は低地にあり、周辺の川から水が集まりやすい地形でした。周辺の川からの流水の集中が原因となって起こる水害を「内水(うちみず)」と呼びます。
 しかし、沼の下流に当たる利根川から逆流して印旛沼に入ってくる「外水(そとみず)」は、「日光水」と呼ばれ、印旛沼周辺の人々からとても、恐れられていました。しかも、外水は突然来襲し、元の水位にもどるまで、利根川の水位が下がるのを何日も待たねばなりません。時には、二十日〜三十日も要してやっと水が引くという始末です。
 この大水害により、吉植家のみならず、印旛沼一帯の農民は、ほとんどの家や農作物を水で流され、生活もいよいよ貧しくなり、とうとう農業をやめて土地を離れてしまうことを考える人も出てきました。

※ 当時は、水害に備え屋根裏に古米を備蓄したり、船を用意したりしていました。
※ 日光水は、明治十年以降、足尾銅山からの鉱毒を含んだ利根川水のことです。
※ とび級とは、当時の中学校で、特に成績の優秀な生徒に対して学費を援助する目的で予定より早く卒業を認めていく制度のことです。
※ 下井新田村は、明治二十二年に近隣十七ヶ村が合併して埜原村(やわらむら)となります。

明治26年頃の吉植家とその周辺 明治26年頃の吉植家とその周辺

▶ 二 北海道「和村(やわらむら)」をつくる

 明治二十五年九月、二十七歳になった庄一郎は、生活に困っている人々を救うためにたった一人で立ち上がります。
 当時、明治政府による富国強兵・殖産興業策として、北海道の開拓が、旧士族を中止に始められていました。これに、困窮する農民も加わって、新天地の開墾が進められていたのです。
 これに目をつけた庄一郎は、千葉県に働きかけ、単身で北海道へ渡航しました。そして、わずか二ヶ月間で現地調査を終え、雨竜原野の約六百町歩(六百ヘクタール)を開拓後払い下げてもらおうという約束を開拓使より取り付けました。
 帰郷後、早速、水害に苦しむ農家四十七戸をとりまとめ、郡内の篤志家を歩き回って移住のための費用を借りて歩きました。そして、ようやく北海道開拓団を組織し、移住の準備を整え、新しい春を迎えました。
 妻のトク・妹のナミ・スイや弟の庄三、妹の夫、織原吉之助らも加わり、まさに吉植家をあげての取り組みとなりました。
 「やっとこの印旛沼の水害の苦しみからのがれられる・・・」
 と庄一郎は印旛沼を見つめながらつぶやき、北海道の広く明るい原野に夢ふくらませていました。
 この時、後に庄一郎の開拓の意思を継ぐ、息子の庄亮はわずか七歳でした。病弱ですぐ近くの小学校にも通えない体でしたので、やむえず父庄之輔のもとに残し、出発することになりました。
 翌年、明治二十九年五月、吉植庄一郎を中心とする移民団は、新天地に夢をはせ、盛大な見送りのもと埜原村(やわらむら)をあとにします。
北海道開拓団の移動経路  さて、小樽港に降り立った一行は、開通したばかりの鉄道に乗り札幌に到着しました。札幌から雨竜原野までは、荷車で数日間かけての移動となります。ほぼ全ての財産を、ここで味噌や醤油・米などの食料に替え、ともに声をかけあい、道無き道をかき分けて雨竜原野に到着しました。
 しかし、開拓を開始してわずか十五日後に、建てたばかりの小屋や食料を失火で全て消失してしまうなど、移民団の生活は困窮を極めました。そんな記録が、開拓団の子息の一人で、後に地域の作家になった加藤愛夫によって書かれた「いたどりの道」という小説に残されています。
 その後の庄一郎は、開墾に携わりながら、開拓団の生活を守り、現金収入を得るために運搬事業を始めたり、開拓使や近隣の開拓地とのつながりを深めていくように務めていきました。
 運搬事業は、同行の若者十数名を募り、有限会社「培本社」を設立してはじめたものです。自ら社長として原野を開墾するばかりか、ジャガイモなどの冬を越すための農作物の生産や若者の労働力を生かして札幌と旭川間の荷物の運送にも拡大していきました。
 こうして、数年後、雨竜村字和(うりゅうむらあざやわら)に約五百町歩(五百ヘクタール)にもわたる開墾が見事に成功し、約百戸余もの新しい村がここに完成しました。

※ 「和(やわら)」は故郷の埜原村(やわらむら)にちなみ村民全員の和を大切にしたいという願いをこめて名付けられたそうです。
※ 加藤愛夫(かとういくお)は四十七戸の開拓団の中の加藤松之助の長男で本名松一郎、「いたどりの道」は千葉開拓団の生活をテーマに書かれた小説で遺稿委員会が没後にまとめました。

▶ 三 北海タイムス新聞社の設立

 やっと安定した生活が得られたかと思えた北海道開拓団を再び生活苦のどん底に落とす出来事が起こります。
 明治三十一年、庄一郎が三十三歳の頃に起きた、石狩川の氾濫を中心とした北海道大水害です。
 「水害はどこまで俺たちを苦しめれば気が済むんだ・・・」
 印旛沼の水害から逃れてやっと新天地の開墾が軌道にのったばかりの庄一郎にとって、治水問題は改めて逃れることのできない生涯の課題と考えさせられた事件でした。
 この大水害の被害は、雨竜村の移民団のみならず、北海道全域の開拓民の生活をも根底からくつがえすような大災害でしたので、庄一郎は、札幌の大地主や商工会議所の名士を集めて上京し、時の政府の内務大臣板垣退助に陳情しました。
 そして、窮状を強く訴え、当時のお金で救援費三百万余円もの大金を引き出すことに成功したのです。
 「ああ、これで多くの人々が救われるのだ・・・」
 庄一郎は、ほっと胸をなでおろし、共に力を合わせた多くの人々に心から感謝したのでした。
 このできごとをきっかけとして、庄一郎は、北海道在住の地主や有力者との関係を深め、「北海道有志倶楽部」を設立し、開拓してまだ未整備な北海道の町をよりよくしていく商工会議所の活動に目覚めていきます。
 例えば、北海道拓殖銀行の設立運動・治水事業の進捗や開拓の速成・自治制の創立などを目標に掲げて活動していきました。
 そして、明治三十二年三十五歳の時、「北海道時事新聞社」を興し、自ら社長となり新聞業をはじめます。また、明治三十五年三十七歳の時には、北海道にある他の二紙と合併し、「北海タイムス新聞社」の理事に就任しました。この時、実に約六万部をも発行し、当時としては北海道一の大新聞社でした。
 こうして新聞事業や政治へ活動の場を広げていくうちに、庄一郎は雨竜村の和(やわら)の開拓地へ帰ることが徐々に少なくなり、やがて、中心的なリーダーを失った埜原村(やわらむら)の北海道開拓団は、再び印旛沼の埜原村にもどっていく家族が増えていくことになります。

※ 明治後期の三百万円は米価で比較すると現在の約百四十億円に相当します。
※ 北海タイムス新聞社=現在の北海道新聞社
※ 北海タイムス新聞社は、北海時事と北門新報と北海道毎日新聞が合併してできました。
※ 北海道大水害は、三十一年九月。死者二百四十八人、家屋流失・倒壊三千五百戸の被害が発生しました。

▶ 四 政治家としての庄一郎

 庄一郎の政治活動は、明治三十二年の「北海道立憲政党札幌支部」に参加したことから始まります。翌年、「立憲政党札幌支部」と「北海道有志倶楽部」を合同し、「政友会支部札幌」を設立しました。
 明治三十六年、三十八歳となった庄一郎は、突然北海タイムス新聞社の理事を辞職して南米チリに約半年間をかけて海外渡航することになります。
 政府と北海道庁からの派遣により、藤島正健とともに南米と日本との貿易の様子や南米の日本人移民の様子などを視察することになったからです。
 その帰りには、パナマ運河を経てアメリカのニューヨークにも訪れ、日本人の移民の生活を見聞しました。このとことが、その後の庄一郎の政治活動にとっては大変貴重な経験となりました。
 帰国と前後して、千葉県選挙区から立憲政友会衆議院議員として立候補した庄一郎は、弱冠三十九歳の青年議員として初当選を飾ります。
 議会における庄一郎は、特に農業政策でめざましい活躍をしました。農業の保護・農政の改革・開拓の進捗・帝国経済政策・産業政策などに、これまでの経験を生かして議会へ提案したり、議決をうながしたりする活動を行っています。外国からきた穀物に輸入税を課して、農業を保護する政策を現実化させるなどのことも行っています。
 また、新聞社を経営した経験から、予算関係にも詳しく、毎年のように予算委員となり、政友会を代表してたびたび質問に立ったと本埜村誌(大正五年発行)に記してあります。その後も、政務調査委員となり、いろいろな法案の成立に力をつくしました。
 一方、新聞社経営においては、明治四十二年、四十四歳の時、「中央新聞社」の理事に就任し、六年間にわたり、経営を担当し、後に社長に就任します。また更に、大正二年には「大阪新報社」の社長に就任しました。
 このように、政党の広報活動や議会活動・新聞社経営とを併せて、同時期に行い、世の中の動きや問題を広く国民に理解してもらうための活動を意欲的に行っていきました。

※ 一九二七年、昭和二年の世界恐慌は日本では東京渡辺銀行の破綻から始まりました。当時の大蔵大臣片岡直温に庄一郎が帝国議会予算委員会で厳しく質問。失言を誘い倒産取り付け騒動になったといわれています。
※ 藤島正健(ふじしままさたけ)は、庄一郎が北海道移住当時の千葉県知事です。

▶ 五 再び治水問題へ

安食水門  大正九年、中央新聞社社長を辞任し、息子庄亮が文芸部長になりました。そして、庄亮もやがて政治部に移り、後に政治家の道に入っていくことになるのです。
 この頃から、祖父庄左衛門・父庄之輔からの悲願であった印旛沼の治水問題への取り組みが本格化してきます。
 原内閣や田中内閣で文部省勅任参事官や商工政務次官に就任した庄一郎は、これまで議員として議案を提出しつづけていた第一次〜第三次利根川治水計画書に基づき、利根川の改修と安食水門の建設問題に取りかかりました。  この頃の、印旛沼一帯の農民は、水害の被害のみならず、多額の水利組合費が大きな負担となり生活を苦しめていました。
 また、当時の印旛沼は、利根川の遊水池のように扱われ、利根川の沿岸の治水問題の方が優先課題とされ、印旛沼の水害は二の次にされかがちでした。
印旛排水機場 国会議員としての立場の向上とともに、自信を深めた庄一郎は、安食水門(あじきすいもん)の必要性を声高に訴える議員活動の結果、大正十一年、五十七歳の時、とうとう外水(日光水)の被害を防止し、印旛沼一帯の農業を大きく前進させる、悲願であった安食水門の完成をみることになったのでした。
 庄一郎が、水害の脅威から埜原村を離れてからすでに三十年余もの歳月がたっていました。

※ 大正二年本郷村と埜原村が合併し、本埜村となりました。
※ 文芸部長当時の庄亮は、北原白秋など広く文人との交友があり、後に千葉県三大歌人と称されるほど歌人としても有名でした。

▶ 六 「吉植農場」と晩年の庄一郎

昭和初期の吉植農場 その後、庄一郎は、海外移民の保護問題や米の専売制度等に力を尽くし、明治三十七年の初当選から昭和八年五月の衆議院選挙で落選するまで、実に連続九回の当選を果たし、二十七年間の議員活動における数々の業績を残し引退しました。
 そして、父庄之輔が長く守ってきた故郷の本埜村下井の実家に戻り、静かに農業をしながら晩年を過ごしています。
 大正十三年、庄一郎の息子庄亮が、歌人としての名声とともに、突然、本埜村に帰ってくることになりました。
 まるで父庄一郎が生涯をかけてとりかかった安食水門の完成を待っていたかのように、「吉植農場」の低湿地帯の開墾事業に取りかかったのです。
 実に庄亮の開墾は六十町歩余り(六十ヘクタール)にも及びます。
 当時、各地で行われはじめていた大規模な機械化農業を短期間に国内各地の先進地視察で学び、農業についてはまったくの初心者にもかかわらず、大胆な農業経営に乗り出したのでした。
 そして、昭和十年に、各地から入植者を募りオープンした「吉植農場」は、千葉県下に広く注目され、まさに夢と希望に満ち満ちていました。
吉植農場と庄亮 しかし実際には、庄一郎や庄亮が心から願った水害のない豊かな本埜村にはまだまだ遠い状況でした。
 「外水」の被害は、多くの印旛村周辺の村々では確かに減少し、安食水門の効果は上がっていたものの、「内水」のひどい被害はその後も続き、昭和十三年・昭和十六年と相次いで「吉植農場」をおそったのです。
 晩年の庄一郎に改めて水害の恐ろしい力を見せつけることになりました。
 「この印旛沼をいつか水害のない豊かな土地にしたい・・・」
 吉植家と印旛沼周辺地帯の人々の悲願は、庄一郎が亡くなってから二十六年後の昭和四十四年、印旛沼用水・排水施設の完成をもってついてなしとげられました。
 これにより、印旛沼の「内水」を排水機で外に出すことができるようになったり、花見川などの水路の整備によって「内水」を減らしたりすることができるようになったのです。
 その後、昭和四十四年以降、現在に至るまで、印旛沼一帯が大きな水害に見舞われたことはありません。

壮一郎を惜しむ人々尾

▶ おわりに

下井吉植家の庄一郎墓石 第二次世界大戦が激化した昭和十八年三月十日。吉植庄一郎は、多くの人々から感謝されつつ本埜村下井の自宅で七十九歳の生涯を終えました。
 昭和二十四年十一月、戦争も終わり世の中が落ち着きを取り戻そうとした頃、吉植庄一郎の業績に感謝する有志たちの手により、義人木内宗五郎の眠る、宗吾霊堂の境内に一際大きな頌徳碑(しょうとくひ)が建立されることになりました。その脇に、息子の歌人吉植庄亮の歌碑がひっそり並んで建てられています。

  紅水鶏(べにくいな)
    まだしづけくも なきいでて
      見渡すかぎり 青田ゆふ風

宗吾霊堂の庄亮歌碑 庄一郎があれほど恐れた印旛沼一帯の水害がすっかりなくなり、今は自然と稲作がみごとに調和し、豊作を夢見る沿岸一帯の農民の喜びが伝わってきます。
 まるでそんな歌のようにかんじられます。

   §   §   §

 なお、庄一郎たちが開拓した雨竜村(現在の北竜町)の真竜小学校と本埜村の三つの小学校間では、姉妹校として、現在二十年間にわたり交流事業を続けています。
(編集・本埜村第二小学校)
(転載者注:交流事業は平成21年に終了しております)


吉植家家系図   新利根川・伊印旛沼
左:吉植家家系図   右:明治時代初期と昭和20年頃の新利根川・伊印旛沼

▶ 参考文献

○「歌人吉植庄亮」 工藤幸一著 橄欖社
○「吉植庄亮とその周辺」 大屋正吉著 木兎出版
○「いたどりの道・北竜町のルーツ」 加藤愛夫著 白楊印刷株式会社
○「吉植庄亮」 鈴木康文著 柏葉書院
○「千葉県本埜村誌」 千葉県印旛郡本埜村役場編集 崙書房出版株式会社
○「わたしたちの本埜村」 本埜村教育委員会編集 東京書籍株式会社
○「本埜の歴史一印旛沼に育まれたある農村の物語一」 本埜村教育委員会 ぎょうせい(株)
○「印西風土記」 五十嵐行男著 月刊千葉ニュータウン
○「生きている印旛沼」 白鳥孝治著 崙書房出版株式会社
○「千葉県の歴史」 石井進・宇野俊一著 株式会社山川出版社
○「東京学館高等学校・研究紀要」第4.5.6.8号 花澤正美 東京学館高校
○「郷土を開く 本埜村の昔と今の話集1」本埜第二小学校
○「吉植家写真集」 吉植柱一貴氏より借用

▶ 吉植庄一郎 年譜

慶応元年9月8日(1865年)
明治元年(1868年)
明治3年
明治13年
明治13年
明治17年


明治21年
明治22年

明治24年5月9日
明治25年

明治25年9月



明治26年5月




明治29年9月


明治31年

明治32年
明治34年

明治35年

明治36年9月


明治37年4月
明治37年2月




明治39年10月25日
明治39年
明治42年
明治43年
明治44年

大正2年8月(1913年)
大正8年
大正9年2月


大正11年

大正12年
大正13年1月
昭和8年5月(1933年)
昭和11年2月
昭和13年

昭和16年4月1日
昭和16年

昭和18年3月10日
昭和20年8月
昭和20年12月
昭和21年10月
昭和22年4月1日
昭和24年
昭和24年11月

昭和44年

2歳

16歳
16歳春
19歳2月


23歳
24歳


27歳





28歳




31歳


33歳

34歳
36歳

37歳

38歳


39歳





41歳
44歳
45歳
46歳


48歳
54歳
55歳


57歳

58歳
59歳
66歳

74歳


77歳

79歳
・庄之輔・寿え子の長男として本埜村下井で生まれる。
・明治維新
・豪雨のため堤防あいついで決壊
・小学校卒業(毎回首席優等)
・千葉県立中学校入学
・千葉県立千葉中卒業(成績抜群でとび級)
・帰郷し独学で二年間励む・長男庄亮生まれる
・小国民の育成の職につく(代用教員)
・下埴生郡土室村英漢義塾・同村小学校長
・帝国禁酒会を起こし遊説・機関誌「光」発行
・二宮尊徳の農民運動に傾倒
・祖父庄左衛門没(六十六歳)
・明治前期最大の洪水・利根川及び印旛沼氾濫
・高瀬泰治郎氏と利根治水協会設立
・単身北海道に渡航しニケ月間事前調査
・雨竜原野六百町歩の貸下される
・村民の中で水害の為貧困に苦しむ四十七戸を募る。
・郡内篤志家より移住費を借り入れる
・庄一郎移民団長として北海道へ移住(二十五戸)
・到着後十五日で仮小屋全焼。衣服・食料に窮す。
・第二期移民団(計十七戸)出発 雨竜村宇和と命名
・合資会社「培本社」設立・社長就任
・ロシア教会セルゲイ神父北竜に来る。
・前代未聞の北海道大洪水
・北海道水災救済会を札幌に起こす。
・有志数名と上京し内務大臣板垣退助に陳情
・北海道在住大地主並知名の人士と北海道有志倶楽部設立
・同志と北海時事新聞を起こし自ら主幹となる。
・北海道立憲政党札幌支部参加
・立憲政党札幌支部と北海道有志倶楽部を合同。政友会支部を札幌に設立。
・北海道の他の二紙と合同し,北海タイムス新聞と改題し理事となる。(北海道一の大新聞社六万部発行)
・北海タイムス理事を辞職。
・北海道庁・外務省の委託により藤島正健とともに南米のチリ比露に渡航(貿易事業・南米植民地視察)
・衆議院議員当選(千葉県選出)・立憲政友会
・議員当選以来,利根川治水問題をライフワークとして心血を傾倒し,たびたび速成建議案を提出。
・第二期利根川治水計画書立案・議会通過
・第三期利根川治水計画書立案・議会通過
・外来穀物輸入税を課し,農業保護政策を現実化させる
・父庄之輔没
・日露戦争の功績により動四等旭日章を受章
・政友会本部機関誌「中央新聞社」理事就任
・明治有数の出水
・台風の直撃で未曾有の大洪水
・廣軌鉄道調査会員(特別会員)
・本郷村と埜原村が合併し,本埜村となる。
・大阪新報社(大阪政友会準備機関)社長就任
・印旛沼治水運動にとりかかる。(利根川改修・安食水門)
・中央新聞社社長を辞任・原敬内閣・文部省勅任参事官に就任・田中内閣・商工政務次官に就任・海外移民保護や米専売に尽くす
・議会運動により利根川の逆流を防ぐ安食の水門完成(印旛沼湖岸の水害を防ぐ)印旛水門
・関東大震災 約十四万人死亡
・従四位勲二等叙勲
・衆議院選挙落選(明治三十七年から連続9回当選)
・庄亮、衆議院選挙で初当選
・埜原尋常小に二宮尊徳石像の寄贈に尽力
・集中豪雨で印旛沼流域大水害
・本埜第二国民学校と改称
・集中豪雨で印旛沼流域大水害
・戦争激化で農村の労力が不足・多数の入植者離農
・庄一郎没す
・終戦
・占領軍政策「第一次農地解放令」
・「第二次農地解放令・農地改革」・日本国憲法公布
・本埜第二小と改称
・国による用水・排水事業開始
・印旛沼・利根川治水問題の功績で,宗吾霊堂境内に頌徳碑建立(印旛沼沿岸民一同より)
・用水・排水施設完成

▶ あとがき

 平成十九年四月、本埜第二小学校の校長として着任すると、すぐに、校長室前の廊下で、「田んぼを鍬で耕す」男性の額入り写真に気がつきました。学校職員に尋ねると、鳥貝歌人(千葉県三大歌人)・衆議院議員・校歌作詩者「吉植庄亮」という人物であることがわかりました。これが「吉植庄一郎」を教材化するきっかけとなりました。
 本校は、白鳥が飛来する学校でもよく知られており、明治六年、将監小学校から始まり百三十五年もの伝統を持つ環境に恵まれたすばらしい学校です。しかし、「庄亮」のような立派な人物を輩出しているにもかかわらず、子どもたちや教師や地域の人々にも、意外に、こうした人物などの地域の歴史はよく知られていないように、その時感じました。
 さて、そのうち、「庄亮」という人物が妙に気になり、学校に来られる人にこのことについていろいろと尋ねるようになりました。また、滝野地区にある、本埜ファミリア館の図書室に関係資料が集められていることを知り、そこに通ううち、館長さんから「いたどりの道」という小説を紹介していただきました。
 この小説には、「生涯」の父「吉植庄一郎」について実に詳細に記してあります。北海道の開拓へ向かうこととなった経緯と開拓の様子を読み進めていくうちに、改めて本埜村がかつて度重なる水害に苦しみ、水害と闘い続けた歴史をもっていることに気づき、ここに住む人々の生活をよりよくしていこうと努力してきた人々に対して、いつしか尊敬の念を持つようになりました。
 平成十八年、六十年ぶりに教育基本法が改正され、教育の目標(第二条)五「伝統と文化を尊重し、それらを育くんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と明示されました。
 このことを踏まえ、本校において、「吉植庄一郎」という人物を教材として取り上げることにより、この本埜の郷土の歴史や自然・社会的条件をよく理解し、その結果、郷土を愛し主体的に生きる子どもに育って欲しいとの願いから、このような小冊子づくりを試みた次第です。
 当初は、「庄亮」からまず教材化したいと考えました。しかし、「庄亮」に開しては、実に多くの本や記録が残っています。それに比べ、「吉植庄一郎」については、ほとんど記録が残っていません。まず、「庄一郎」の記録を残しておきたいと考えました。また、郷土史という立場から見て、水害と闘い、北海道開拓を行い、新聞社を興し、衆議院議員となり安食水門建設に功績のあった人物に注目する必要を感じました。「庄亮」については、また後の機会に書いてみたいと考えています。
 いささか興味本位の教材化になっている感はいたしますが、本校の子どもたちが郷土の先覚者に興味をもってくれればありがたいと思っています。今後、一層のご批正を賜り、この小冊子が、子どもたちにとってよりよい教材になってくれればと念じております。
 最後になりましたが、作成にあたり、本埜村教育委員長五士嵐行男様はじめ村教育委員会の皆様他多くの諸先輩の先生方にいろいろとご指導を賜りましたこと、また、吉植家より、写真等の貴重な資料を借用させていただきましたことに対して厚く御礼申し上げます。

平成二十年十一月吉日
本埜村立本埜第二小学校    
校 長  森山   昭    




2012年8月31日(金)、元・本埜村第二小学校・森山昭 校長先生(現・佐倉市立上志津小学校校長)が、ご友人の西野則一 校長先生(千葉市立千城台旭小学校校長)とご一緒に、北竜町立真竜小学校・柳館融 校長先生をご訪問されました。

元本埜村第二小学校・森山昭 校長(中)   真竜小学校の中庭
左:真竜小学校・柳館融 校長(左)、元本埜村第二小学校・森山昭 校長(中)
ご友人の西野則一 校長(現千城台旭小学校)(右)  右:真竜小学校の中庭
(撮影:2012年8月31日)




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