六月中旬から暑い日が続き、稲もひまわりも、そのほかの作物もすっかり元気になった。
これは、ありかたいことである。ところが、平成十二年に脳梗塞の手術をしてから、兄は失語症となってしまった。
ずっと自宅で療養を続けてきたが、昨年から特別養護老人ホーム北竜町永楽園に入園、ほっとした。が、なん度も肺炎に罹り、その都度深川市立病院に入退院を繰り返した。今年になって永楽園から深川市立病院へ、そして北海道中央病院へ移されてしまった。
ずっと看護を続けてきた義姉が「夏を越せそうもない」といった。なん度か危篤になり八月四日に逝った。
私にとって兄は、重石のような存在であった。それだけに今は、ぽっかりと穴が開いた心境である。ただひたすらに冥福を祈るばかりである。春以来、兄のことが気掛りであったが、胸のつかえが無くなった。
ちちははも兄もあの世へ秋立てり 龍
兄についていえば、なにかと注意をされる煙たい存在であった。兄は若い頃、冬になると馬で山から木材を和駅の土場まで運び、その帰り道、光星夫人の小さな店で、饅頭を食べるのが楽しみであったという。 たまたま北光星さんがいて、誰か俳句をやらないかといわれたという。「俺はやらんけど弟ならやるかも知れない」といったそうで、私が、光星先生から俳句の指導を受ける「橋渡しをしてくれたのが兄である」これは不思議な縁だと思っている。
兄が危篤になり、一週間ほど家を空けた。兄の葬儀を終え、畑へいくと、トマト、茄子、胡瓜がとんでもなく大きくなっていた。手頃の大きさになった茄子を一夜漬けして、これを肴にビールを飲みたいと思っていたのに、大き過ぎて漬物にならないという。それで焼茄子か油で炒めることになった。
それはそれとして、わが家の野菜は露地物である。ときには寒さ、暴風雨に見舞われることがあったが、恵みの雨であったり、なんといっても太陽の光をたっぷりもらって育つ、大自然へ天からの贈物である。
それと馬鈴薯も新じゃがとして食べているし、トウキビもこれからが食べごろになる。
畑の縁に六〇本程植えてあったひまわりは、花を楽しませてくれたあと、実は小鳥たちが食べ、これを抜いて刻み堆肥となった。
ところで北竜町永楽園、深川市立病院、北海道中央病院で、看護の人たちに、兄は大変お世話になった。ただ兄は自分で食事が食べれないようになってから、点滴であったり酸素吸入などの「延命」措置によって、苦しみながら、何十日も生きることができた。
これが天寿を全うしたことになるのであろうか。私は兄の命を大切にしたとは、どうしても受け入れられないのである。もっと人の命、寿命を大切にしてほしいと思った。色づき始めた田んぼへ向って、兄の霊柩車が停止して、クラクションを鳴らしてくれた。
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