「田中昭三とスポーツ」田中盛亮

2014/03/05 13:38 に 寺内昇 が投稿   [ 2017/03/01 20:01 に更新しました ]

田中盛亮 氏  田中昭三は、父与平、母イヨの三男として、昭和三年二月、北竜町宇和にて出生し、昭和五年頃西川に移り住み成人した。
 生まれつき病弱で三回も生死をさまよったと間いている。特に小学校に入学する年の二月、風邪を拗らせて急性肺炎となり、医者にも見放され、食欲もなくなり日に日に痩せ衰えて自力で立つことも出来なくなった。

 その時父与平は、隣の兄の池から雪を掘って大きな鯉を一匹貰って来て、その生き血を飲ませてもらいそれから元気が出て、食欲も少しずつ出てきた。そして二週間もすると物につかまって立てるようになり、嬉しくて壁伝いに歩いて茶の間の戸を開けたら、家族の人達は痩せて骨と皮の者が顔を出したので、死んで幽霊が出て来たのかと思ったそうです。

 その後もめきめきと回復して、一ヶ月遅れで入学するのであるが、体力のない昭三にはランドセルが重く重労働であったようである。二年生の時も病を患い一ヶ月遅れで登校したそうである。

 学校の成績は良い方であり、特に習字は抜群であった。体力のない昭三にはスポーツは苦手で何をやっても最下位であった。その事は小学校の高等科を卒業するまで続いた。

 当時の農家の子弟は二男、三男と云わず殆どが農業に従事することであった。男も女も全てが青年団に入団し、学習や軍事教育、スポーツ等を通じて親睦を深めて行ったことである。

 昭三には当面二つの悩みがあった。
 その一つは、同年代の殆どの人が米一俵担ぐことが出来るが、昭三にはそのことが出来ない侮しさがあった。
 もう一つは当時大東亜戦争の真只中であり、体力がなければ敵と戦えないからである。

 昭三は毎日毎日、体力をつけることに専念した。暇さえあれば納屋に行って米俵に挑戦し、率先してスポーツに取り組み、夏は相撲や陸上競技、冬期間はスキーや銃創術と身体を鍛えることであった。その甲斐あって十六才の頃から体力がつき始め二十才頃には人並み以上の身体となった。スポーツも持前の負けん気と努力、そして研究心で、ビリからトップに躍り出たのである。

自転車競技

 戦後、昭和二十一年より国民体育大会が開催された。通称「国体」と云われている。
 先輩、岩井忠作氏は、第二回国民体育秋季大会の自転車競技に北海道代表として出場した。こんな小さな村から国体選手が出るなんて大したもんだとすっかり刺激され、昭三は「ようし俺もやってみよう、岩井忠作氏より強くなれば国体に出られるんだ」目標が身近にあります。

 然し自転車を買わなければ競技に出場することは出来ません。現在では一日働けば自転車の一台位買えますが、当時の労賃と物価の価が大きかったのです。二十日位働かないと自転車を買う事が出来ませんでした。昭三は、冬期間馬稼ぎをして、競技用の自転車を続木自転車店で求めるのであった。
 続木自転車店の続木茂文氏は熱心に選手の育成に情熱をそそぎ、道の協会役員も務めていたのである。

 先輩には、佐野弘氏や相馬正行氏も全道的に活躍した選手を目標に、岩井忠作氏を中心に常時六、七人の選手と練習を重ね、全道各地の大会に出場し北竜の名声を高めたことである。
 昭三も力を付けて、各大会に於いて二位以下に落ちることは無かった。当然国体予選も勝ち取り、岩井忠作氏と共に北海道代表に選ばれたのである。

 第三回国体は昭和二十三年十月二十九日より十一月三日まで、九州の小倉市で開催されるのであるが、その事を道より村役場に通達があり、参加費用の支援要請があった。村長は財政難から一切援助は無く、仲間の田川三次氏が青年団にお願いをし、素人演芸会を開いてもらい、その益金を二人の費用に当てたとのとである。
 この善意に感動した二人は何としても予選位は勝たなければと頑張り、二人共予選を通過し、昭三は予選も準決勝も二位で通過し、決勝は六位と敗退するが、北海道では唯一人、天皇杯得点を勝ち取った事は大健闘である。
 出場選手の殆どがノンプロ選手に比べて昭三は農家の子弟であり、稲刈りの間、朝飯前、昼休、夕食後が練習の時間であり、他県の選手との練習に大差があり、準決勝から二時間後の決勝では体力の回復が出来ず、スタミナに大きな差があった様である。

 国体に出た選手には試験無しでプロになれる制度があって、昭三はプロの世界に入ると云ったが、頑固な父与平は、自転車でメシは食えないの一点張りで、猛反対され断念した。他の北海道選手は全てプロ入りした。岩井忠作氏も壮年になるまで活躍したことである。
 昭和二十四年も、昭三は国体予選に出場し、代表権を得るが辞退し参加しなかった。

俵担ぎ競技

 青年団の陸上競技に俵担ぎと云う種目がある。昭三は本村の代表として、北空知大会には、四〇〇米、八〇〇米、千六〇〇米リレー等の選手として出場し、八〇〇米では、記録保持者、妹背牛の大窪選手を破り優勝したり、千六〇〇米リレーの一員として優勝するが、自分に一番適している種目は俵担ぎ競技と決め、北空知大会に出場させるよう依頼するが既に二人の代表が決っていた。

 青年団の幹部も昭三君なら勝てるような気がすると云った。然し代表に決っている二人は納得しなかった。青年団幹部は何回も二人を説得し、それでは三人で再試合をして見ようと云うことになり、その結果大差で昭三が勝ったのである。
 北空知大会に出場することが目的では無い。大会で勝つことだ。昭三には優勝以外考えていない。望みどおり優勝することが出来た。タイムは十五秒四である。この記録はその後も破られなかった。

 依担ぎと云う種目はどんな競技だろう。
 重さ六〇キログラムの土俵を担ぎ、八十メートル走る競技である。
 青年団の出場資格は年齢二十五才までとなっている。昭三は二十五才、青年最後の年にこの種目にかけたのである。勿論北空知の青年幹部の間でも、昭三は全道大会優勝の最有力選手であった。

 美唄の全道大会では、体格の大きい選手がいるので、相撲の選手かと聞くと、俵担ぎの選手と云う。でも昭三は自信が有った。相撲をとっても、走っても俺の方が強いと思った。
 大会当日土俵は何十俵も用意されている。選手はその中から自由に土俵を選ぶのである。昭三は後半の出場なので、ゴール地点で記録をチェックするが、皆十六・十七秒台である。

 いよいよ昭三の出番である。号砲と同時に一気に俵を肩に持っていくが俵が上らない。縦縄がぶっつり切れた。昭三は一瞬競技を中止しようと思った。他の選手は既に走り出している。然し担ぎ直しても追い付く自信はあった。次々と前の選手に追い付き、抜いたが、もう一人を技くことが出来なかった。運悪くこの組に優勝した上川代表の賀集一正(後に旭川市議会議長となる)がいた。タイムは十五秒七であった。北空知の佐々木実会長は再試合を申し立てたが受け入れられなかった。土俵は自分で選んだという理由もあったようである。

 その年の全国大会の記録は十五秒三であり毎晩練習を重ねてきた昭三にはその記録は充分勝てる記録であっただけに残念である。

相撲

 戦後の青年団活動は、陸上競技大会、相撲大会、弁論大会が活発に行われた。特に相撲大会は、青年団の対抗大会の他に各神社のお祭の奉納や各寺の催し事の余興として盛大に行われた。
 優秀な力士は町内ばかりでなく、北空知は勿論のこと、滝川や砂川、旭川方面まで花相撲を取りに遠征するのである。どこの町村にもそんな力士は五人位はいた。昭三も年々力をつけ、三十才位が一番強かった様に思われる。

 北空知も江部乙を含め十二町村有り、青年団対抗の大会も盛大に行われ、昭三も北竜の代表として参加し、ある年は、先鋒として十一戦全勝で敢闘賞も受賞したこともあり、全空知の大会で団体四位の成績を収でめた。
  当時空知は、東洋高圧を中心に、石炭全盛時代であり、全道を代表する選手が殆んどいる空知で団体四位は大健闘であった。

 その時代では、管内に行っても上位で戦える力士には、化粧廻しを与えて出世相撲をするのである。出世相撲をしてもらえる力士は、各町村に一人か二人で、力士としては大変名誉なことである。化粧廻し一本造るには何十万円の費用がかかり、それは住民より寄附を募り盛大に披露の大会をするのである。

 昭三もその名誉を受け、二代目眞龍山として、杉本幸一郎氏は杉の里として、眞龍神社の秋祭りの奉納と合せて行われ、全道各地より一流の力士が集い盛大に行われた。
 又一秋に十六回の役相撲をとって一回負けただけで十五本の御幣を取ったことが有った。
 昭和四十六年九月、眞龍神社秋祭りの奉納相撲の折、眞龍山、杉の里共に引退相撲を行い、一線より引退した。
 その後化粧廻しは三代目眞龍山(故辻伴行氏)に受け継がれた。

その他のスポーツ

 昭三は、スポーツには何でも挑戦した。持前の負けん気と勘の良さ、研究心と努力によって他より早く技術をマスターし強くなった。

● スキー大会

 戦後間もなく(昭和二十二年頃)久々に三谷のスキー場で、和地区のスキー大会が開催された。

 昭三は馬と共に、冬山造材の飯場に登る日であったが、スキー大会に出場すべく一日遅らせた。滑降競技は三位であったが、登って行って滑り降りる競技やみかん袷いの様なゲーム的な競技もあり、それは二種目共一位であった。
 午後からは距離競技で、大差で優勝すると、引き続きリレー競技である。仲間三人とチームをつくり昭三は第一走者で二位以下を大きく離して第二走者村上、第三走者新谷と継ぎ、これも大差で優勝する。
 最後の競技はジャンプで、これには昭三は出場しなかった。優勝したのは時水重行氏で綺麗なフォームで、飛距離は十メートルと記憶している。
 昭三も満足して、次の日愛馬と共に出稼ぎに旅立った。

● 柔道

 当時小学校の先生で、藤沢多助さんという柔道四股の人がいて、冬期間劇場を利用して、柔道の練習をした時代があった。昭三もそこで練習を重ねて仲間五人と北空知の大会に出場した。実力的にかなり差があったが、普段相撲をとっている昭三と杉本幸一郎さんは引き分けであった。一般の声では初段位の力量があったようである。

 昭三は幼い頃より動物が好きであった。愛馬も常に力の強いものを飼い、村一番か二番の馬を持っていて、昭和三十年頃挽馬競争が流行り、昭三も「ロザン」という強い馬を持ち、村内で優勝すると北空知でも何回か優勝旗を持ち帰って来た。
 こんな状況が全道的になり「ばんえい競馬」が始まったように思われ、その時強い馬を持っていた人達が北空知には何人もいて、道営のばんえい競馬に「プロ」として進んで行った人は何人もいる。

 昭三は昭和五十年頃より土佐犬を飼うようになり、札幌へ移住してからは数頭の土佐犬を飼い、数多くの闘犬大会で優秀な成績を収め、「眞龍山」や「荒法師」の横綱としての大きな認定書が居間に誇らしく飾ってある。
 動物も飼い主の気性がわかるのであろうか、戦う姿を見てそんな感じがした。

 田中昭三のスポーツについて甥の私が執筆することは誠に烏滸がましいが、友からの勧めもあり寄稿したことをお許しください。完


北竜町民「田中盛亮(たなか もりすけ)さん」