「中学校を卒業するまで」田中盛亮

2014/03/02 13:48 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/02 13:49 に更新しました ]

田中盛亮 氏  学校の成績も悪く、体力もなく、スポーツは何をやっても下手な私の少年時代であった。社会人になってから、色々な組織に参加させていただき、今こうして多くの皆様と交流出来るのは何だったんだろう。
 立派な先輩と、すばらしい仲間に恵まれ、その方々に多くのことを学び、今を育ててくれたからであり、今そのことに感謝の日日である。
 町文化連盟より投稿の機会を得たので、今まで歩んだ道を振り返ることにした。

幼少の頃

 私が物心ついたのは小学校に入る頃であった。なぜかそれ以前のことは余り思い出せない。

 その頃、我が家では祖父母を中心に、父、父の弟四人、父の妹と私の九人家族であった。なぜか私の母はいなかった。両親は離婚していたのである。
 私の身の廻りの面倒は祖母が見てくれていた。いわゆる「ばあちゃん子」である。したがって母がいないことは不思議でもなかったし、淋しくもなかった。叔父さん達も私を弟のようにして面倒を見てくれた。

 小学校への入学には、祖父が連れて行ってくれた。父も祖母も何か用事があったのだと思う。
 内気な私は決して祖父の傍を離れることは無かった。元気の良い子供達は、大声を上げて廊下を走っていた。私には不思議でならなかった。自分との差が大き過ぎたからである。
 八十人位の入学生かいたが、私は七つあがり(当時の年の数え方)でもあり、勉強は出来ない方であり、定かではないが五十番以下だったと思う。そんな私の名を「モッケ」と呼ぶ人が多かった。「モリスケ」を早や読みでそうなったのだろう。私はこう呼ばれるのがいやであった。誰が考えたのか「モッケモッケ花モッケ花から生れた赤○○○」とからかう者もいた。尚更劣等感が強くなってきた。今では「モッケの幸い」と思うのだが。

 昭和十八年の入学だから、戦争の眞最中、毎日の様に兵隊さんの見送りである。その頃はまだ札沼線があり、和駅で小旗を振りながら

  勝って来るぞと勇ましく
  誓って国を出たからにゃ
  手柄たてずに帰らりょか
  進軍ラッパ聞くたびに
  瞼に浮ぶ旗の波・・・ (違うかな)

ここまで歌うと、汽車は静かに動き出す。
兵隊さんは、大きな声で「行って来ます」

 その後、鉄道の線路が取りはずされ、見送りは眞竜神社となった。神主によって神事が行われた後、兵隊さんは皆に挨拶をして、妹背牛駅まで歩くのであった。

 我が家でも、保叔父さんにも招集令状が届き、昭和十八年三月九日に出征するために、頑固な祖父も、心をこめて戦地に送り出すべく、親戚や近所の人達を招待して、出征の宴を持つのであるが、酒の手に入らない時代なので、祖母は「ドブロク」をたくさん作り皆に振る舞ったのである。
 国は勿論のこと、一般社会や学校教育も、戦争一色であり、外国語は一切禁じられた。特にスポーツは大変で、ストライク等の言葉は使えず、いい球一球だそうで、音楽もドレミファでなく、「はにほへといろは」であった。

 三年生になった時に、我が家に新しい母を迎えることとなった。お互いバツイチであった。次の日に学校へ行くと、そのことを知っている級友がいて「おめでとう」と云ってくれてテレくさくもあり少し嬉しかった。
 それまで父と寝ていた私は、独立した布団に寝ることとなり、八畳間に叔父さん達と、東西南北に頭を向けて、中央にお互いの足が合わさるように布団を教くのである。冬期間は湯たんぽが無いので、手頃の石を焼いてそれを湯たんぽがわりにするのであった。

 昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を迎える訳だが、日本の全てがマッカーサ元帥が指導する進駐軍の指導に依るものであり、我々生徒の最初の作業は、教科書でさしさわりの文面は全て墨で塗り潰すことであった。その作業は何日もかかったような気がする。

 昭和二十一年三月になって、保叔父さんが兵隊から帰ってきた。三月九日は出征と同じ日であり、満三年の北支での兵隊生活であった。間もなく新しい母に子供がさずかり、叔父さん達が結婚して分家しても、次々と子供が出来、常に我が家は十人家族であった。
 結局五人の弟や妹が出来たこととなり、その子守りは私の担当となった。したがって皆のように水泳に行ったり、野球をしたり、スキーを楽しむことが出来なかった。

 勉強も相変らず出来ない方であったが、叔父や叔母は優秀な方だったので少し気になりだした。四年生の時の担任は坂野先生で、この先生は、私の父といとこに当る人だったし、五年生の担任は河上先生で、この人は私の叔母と大の仲良しだった。この頃から成績の悪い事が気になり少しずつ勉強をするようになった。

中学校時代

 昭和二十二年四月より日本の学校教育も、六、三、三、四制となり、昭和二十四年四月より私は中学生となるのだが、当時は和中学校と云い、眞竜小学校の教室を間借りをして勉強するのであるが、教室が不足し、私達は元畳工場を利用して勉強するのであった。

 念願であった独立校舎は、現在地に建てられ、昭和二十五年六月より全町一校として、新出発したのだが、一年位経過して、美葉牛と竜西は地元の小学校に戻った事である。
 その時点で生徒会役員も再編された。役員選考に当っては、生徒会長と執行委員長は投票で決められるが、他の役員は先生を通じて、指名された。私は書記長に任命された。
 今のように放送施設が整っていなかったので、後の方まで声が届かず「間こえんぞ!」とヤジられた事もあった。私には重荷であったが全ては月日が解決してくれた。

修学旅行

 中学三年生になると修学旅行がある。旅行に参加するかどうかは、父兄の同意が必要であるが、当初は同意が得られない生徒があり心配であったが、最終的にはほとんどの生徒が参加出来る様になった。

 然し私にはもう一つ心配な事がある。それは乗物酔である。六年生の時も小樽まで行ったのだが酔ってしまった。今回は函館から洞爺湖方面、案の定車酔をしてしまい、洞爺湖のホテルに着いた時は重病人になっていた。
 翌朝昭和新山を見学する事であったが、私一人ホテルに残り、医者に注射を打ってもらい、やっとの思いで帰郷した。高い負担金を払い何一つ身につけることもなかった。恥かしさと残念が入り混じった修学旅行であった。

農作業

 当時の農業は馬と手作業に依る営農形態であり、秋の稲刈り期間になると、農繁休暇と云って、一週開校学校を休校にして、総動員で稲刈りを手伝うのである。農業外の生徒も知り合いの家で稲刈りをするのであった。
 我が家は家族が多い割に農業労働者が少なく(それは農業外に勤めていたため)私の休みになるのを待っていた。それどころか休暇が終っても休んで稲刈りを手伝えと云うのである。

 私は本年一度も学校を休んでいないので休みたくなかった。そこで考えたことは、早引きをして休みでなくすることだった。朝始業時ぎりぎりまで稲刈りをして、畦道を走って家で学生服に着替えて、学校では一時間だけ勉強して、そんなことが一週間位続けるのである。お陰で卒業式には皆勧賞をもらうことが出来た。
 今思えばがめつ過ぎたのかと思う。然し一面このようなことも必要な場合があるような気がする。

進学と就職

 昭和二十七年になると戦後も少し落ち着いて来て、高校進学も半数位になり、女生徒の進学もあるようになってきた。私は農家の跡継ぎだし、働き手も少ないので進学も断念していた。
 その頃沼田高校の分校のような形で、定時制の高校が北竜中学校内(後に北竜高校として独立校舎が出来る)で授業が始まり、生徒増員のため岡田先生が我が家に来て勧誘するのであった。

 我が家では全てのことは祖父が、実権を握っていた。この時初めて祖父与平は父に、お前の子だからお前が結論を出せと云った。
 父は少し考えてから「だめだ」と云った。
 自分の本心だろうか、それとも祖父与作に気を使ってであろうか。
 祖父与平は、石川県の生れで学校へは三年しか行かなかったと云う。当時の学問は、読み、書き、そろばん、と云った。与平はそれだけで今日まで何不自由なく生きて来たと云う、六年も九年も学校へ行けば充分過ぎると云っていた。自分の子供も皆勉強は出来た方であったが唯一人も進学させなかった。貧乏もあったと思うが学問には理解を示さなかった。
 孫の進学に対しては一切口を出さなかった。少しは時代感覚を察知していたのだと思うが父は与平の日頃の考えに遠慮して私に進学の許可を与えれなかったような気がする。
 私自身も是非進学したいとも云わなかったし、結果に対してぐれることもなかった。

 後年、高校卒の資格が欲しく、野幌高等酪農学校の通信科を受け、高校卒の資格だけは取得することが出来た。中学卒業と同時に農業後継者として就農すると同時に、地域の青年団に入団し新たな人生が始まるのである。


北竜町民「田中盛亮(たなか もりすけ)さん」