「我が人生波乱万丈でも悔いなし」佐光勉

2014/02/19 14:20 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/02/19 14:31 に更新しました ]

佐光勉 氏 はじめに

 おそらく我が人生でこれが最後の回顧録になると思う、それだけに出来るだけ真実を記したいと思うが、やはり自慢話になるかもしれない。

両親の面影

 父は私の誕生した年に、戦場に散った。「写真」で見る父と、母たちのお話の中から自分なりに偶像化している。国のため、人のために命を捨てたことを強く誇りに思う。

 また私にとって忘れられないのは、亡き母、戦争未亡人としての生涯である。
 父の死はまさに、母にとって悲惨な運命をもたらした。私達四人の子供を女の手一つで、必死になって育てた母親の困苦の姿を忘れる事が出来ない。特に私が小学校五年生の時、長男の兄が社会人として職につき、やっと家庭にとって光明をみいだした。そのやさき当時十七歳にして若き命をうしなった。母の悲しみ、無念さは、まさに想像を絶せるものがあった。それでも残された三人の子供の為に馬車馬のごとく働き私達を社会に出してくれた。
 姉達は、嫁ぎ内孫も生まれ、さあ、母親を楽にさせ恩に報いようと思った時に母は若き時の無理が重なってか五十七歳の身でこの世を去った。あまりにも無常である。私の人生にとって辛く悲しい出来事であった。

 本当の戦争の犠牲者は、この母であり、家族なのかもしれない。でも両親と兄の死は、私にとってどんな苦難にも負けない精神的な支えとして心に永遠に生きている。

※ 長男の病床で死の間際に母が俳句をせがまれ詠んだ句(小五年の頃今でも脳裏に焼き付いている)。

 ・吹雪の夜遠くに聞こえる馬の鈴
 ・夜遅く寝る弟枕辺に小さき包み

野球キチ少年から老人まで

 野球との出会いは、小二年頃から野球キチの兄(六歳上)と何時も対等にやらされた。また夜球が見えなくなるまでキャッチボールをしたり、冬でも荒雪の中で木の球(はさぎの先等を切って)を打って走る二人野球や相撲、それ以上に体を鍛えたものは、特に夏場は、人力による田仕事ゆえ学校から帰るなり母の手伝い、ぬかる水田で稲を背負って運んだことが足腰を強くした。小さな体でも、野球やスポーツに役立ったと思う。
 小五年から正式な試合に出る。中学校、高校(硬式)、でも常にレギュラーで出場することが出来た。

 社会人(役場勤務)になってからも野球への情熱は薄れることなく、何としても伝統あるクラブチームを再建しようと立ち上がった。当時の町内在往者で野球に興味ある人々に呼びかけ、又OBの協力も得、昭和四十一年に発足した。しかし約二年間は、連敗続き、一勝も出来なかった。でもほとんどが一点差の惜敗からくじけることなく、むしろ朝五時からの早朝練習や法光寺、竜泉寺で合宿をするほど熱く燃えた。
 「石の上にも三年」ではないが、昭和四十四年に深川地区天皇杯の代表権を獲得した。その後は、役場、農協とも優秀な選手が入り深川地区では敵なし、北空知支部でも何度も優勝し全道大会に出場する。特に四十八年私が監督時代、富良野市での全道大会でベスト4まで勝ち連んだことが忘れがたい思い出でである。町じゅうの応援を戴き感激一杯であった(このことがのちの「一村一輝」と言う言葉を生む)。

 その後クラブの現役も離れ職場中心となったが、クラブチームが停滞ぎみとなり、昭和六十年「北竜ひまわりクラブ」を立ち上げ、若い後継者に引き継ぎ私自身は、野球とは遠ざかっていたが、平成十六年六十歳で還暦野球があることを知る。

 「深川クラブ」チームに加入、まだやれるとは夢のような思いであった。今日(九年間)まで一番サードとして出場、2年連続全道大会(三四チーム)準優勝で全国大会に出場とキップを握る。しかしこの世界にも若手が入り、厳しい実力の競いあいとなるだけにどこまで頑張れるかまた励みにもなる。今でも野球少年のように心が躍る。また七十歳からの古希の大会もあるだけに楽しくときめいている。

花と竜

 日頃小さな町で農・商だと言わず職域を超えて一緒になってまち作りを考える会があってもいいのではと思っていた矢先に、昭和六十一年商工青年部の若者から生活会議運動(道の新生活運動の実践組織)の相談を受け、合わせて、よしやろうと行動を起こす。
 六十二年北竜の竜とユートピアをもじって竜トピア会と名づけた。当時農協婦入部が中心となりひまわり「一戸一アール運動」、さらに生産調整で田にひまわりが咲き誇っていた。

 六十三年は竜年よし町にちなんで竜をつくろうと、まずひまわりをバックに竜が躍るワッペン「竜が舞うひまわりランド北竜」を作り各商店街の入り口等に貼付しムードを高めた。四月に町内の若者が集まり何度も会合を重ね竜づくりをスタートした。全戸に寄付金を仰ぎ、手作りの竜を完成した。(私が尊敬する辻氏の力甚大)

 又、NHKテレビ「北海道中ひざくりげ」の撮影地とし本町取材に成功し、ひまわり転作田をバックに竜踊りを・・・まさにワッペンのデザインのごとく夢が実現した。(これが後程のNHK朝のドラマ「ひまわり」のタイトルバックに使われる縁を生む)

 しかしこの年本町史上かつてない豪雨に襲われる。国の激甚災害の指定を受けるほどの大災害であった。某町民から「こんな竜を作るから、大雨になったんだ」と言われてもおかしくない。竜は、嵐を呼ぶと言われるだけに、被害総額九八億円だが殆ど国の補助金で復旧がなされた。すべてが突貫工事で冬の間になされ、次年度の営農にあまり支障をきたさなかった。治水事業は過去の分も含めほぽ完成した。特に商工振興の経済効果は、計り知れないものがあった。まさに「雨降って地固まる」。これが「ひまわりの里」作りへの原動力となった。

 平成元年前年の豪雨で収穫を目前にして、ひまわりは半減した。我が町からひまわりが消えてしまう、何としても守り被かねばと考えていた矢先に北雨開発で現場所を持つ地主が、高齢に加え病気で入院することとなり、何とか管理してほしいと申し出があった。冬の間に農協青年部・商工青年部・町、農協、土改、商工の職員で何回も会合を開く。一日ならなんとかすると農協青年部の了解を得る。

 平成元年五月一日朝五時に町内若者が集合してトラクター一〇数台を持ち寄り耕起から播種まで約六ha現在もある「ひまわりの里」を一日で造成した。しかもボランティア(三年間)でなしとげた。当時の若者の中心者等が竜トピア会のメンバーにいたこともラッキーであった。ひまわりと共にあゆんでおり、ひまわり迷路で得た収入は、殆ど土づくり、街づくりに還元された。

汗と涙の感動劇

 私が行政マン時代の一番の思い出は、商工観光を担当した、昭和五十三年に農協から「農業まつり」の事務局が町に移管され「町民まつり」として企画立案「ひまわりと太陽の祭典」をキャッチフレーズとして、二回目は、昭和六十二年再度担当今までの町民まつりを「ひまわりまつり」に改名企画する、さらに新しい事業が舞い込んだ。北海道が「ニューフロンティア・フェスティバル」(昭和六十二年)、北海道の活性化を図ろうと「市町村対抗ふるさと自慢、うた自慢」が企画された。

 またしても過去に前例がないだけに悩みながらもやりがいがあった。職場のスタッフと竜トピア会には、多士済々のメンバーかおり演出から大小道具作りまで毎晩夜遅くまで物の作りと練習に汗をかく。
 町自慢を一分三〇秒に凝縮した全道のオリンピック大会でもある。普段なかなかそろわなくとも本番は、見事に決まる。ひとえに町中の熱い声援で空知大会(二七市町村)で三年連続チャンピオンに輝き全道大会出場、まさに汗と涙の感動劇であった(この感動が当時借金に苦しんでいた竜トピア会が続いた要因かもしれない)

三つの夢

● 一の夢、私の亡き兄は、中学校卒業と同時に役場に就職したが最初は、学生服で給仕をしていた。(住民が席につくと同時にお茶が出たと後ほど町民の方から聞く。どんな職にもプロ意識を持つ大切さを知る)

 それゆえか弟の私には大学に行かせると言っていた。しかし兄は十七歳で亡くなる母子世帯ゆえ、私の考えもガラッと変わる。家庭の事情から、とても大学までは無理ゆえ高校も我が家から通えるところに決める。
 それでも奇跡を信じ進学コースで学習するが好きな野球クラブに入り毎日最終便で帰る。家に帰っても疲れて勉強どころではない。
 ・・・しかし奇跡が起きた。就職先(役場)で上司等の理解があり通信教育で大学を卒業することが出来た。その当時の助役さんがとても喜んでくれたことが今でも思い出される。

 また、スクーリング最終年に思い出を作ろうと雄弁大会を目指し宿舎の屋上で数回練習し本番にのぞむ。十九人の弁士で競う。まぐれにも個人優勝、団体も北海道が優勝を勝ち取ることが出来、一生の思い出となった。

● 二の夢、外国旅行で当時(二十代)は、本町でも殆どいない夢の世界であった。「昭和四十六年中堅青年海外派遣事業(アメリカ三十五目間)に挑戦し二次試験にも合格したが、諸事情で残念する。その後はいくらでも海外旅行できる時代を迎えた。

平成元年「日仏青少年指導者セミナー」挑戦(フランス十七日間文部省主催)・平成六年中国養成、薬膳体験視察団として(七日間農本省主催)参加出来夢は実現した。

● 三の夢、政治の世界、これも思いがけないときにチャンスが訪れた。しかも六十歳を過ぎてからである。
 平成二十年議員の補欠選挙、まさに全国区で気の遠くなるような、荒野をさまようドンキホーテのようであった。幸いに対抗者がなく無競争当選を果たせることが出来た。

 二十三年二期目は、一人オーバーの戦である。下馬評では危ないと思われていたが見事二六四票のトップ当選の栄光を勝ち取ることが出来た。まさに自分の力でなく私を支えて下さった多くの仲間と地域の方々のおかげゆえ、感謝と感激一杯である。この年になっても夢は、志を強く持ってあきらめなければ実現することを体験した。

妻との別れ

 私の人生で最も悲しい出来事であった。平成二十年十二月三十一日死亡、あまり思い出したくはない。しかし、私のメモリーとして記さないわけにはいかない。

 平成十九年五月十五日深川市立病院で妻の膵臓がンの告知を受ける。全身の血が抜けるようなショックであった。その後旭川医大、千葉県にある国立重粒子医学センター病院に約一か月入院(がん細胞をブロック)し、無事帰還し深川市立病院に週一回程度通院をしながら普通の生活をしていたが妻は気になるだけに手術をし、完全に撤去したい思いでいた・・・

 子供達がいろいろ調べた結果、日本で一番膵臓ガンの手術を多く実績のある東京の帝京大附属病院に二十年一月に入院し大手術を行う。一応は、成功し四月まで入院生活を送り、故郷自宅に戻るが深川市立病院で入退院を繰り返す。二年間で人院二七五日通院四十一日間ほぽ毎日仏と三人の子供達夫婦そろってチームワークよく見舞い看護をしてくれた。
 又、夜孫達と病院から帰る時、いつも妻が四階の窓から車が見えなくなるまで手を振っていた。その姿に息子が目がしらを抑えながら運転する様子に、自分はもとよりあまりにも辛く悲しかった。

 ・・・もう目の前に故郷我が家があるのに帰れない妻の気持ちを思うと可哀そうであまりにも残酷であった。また、妻は、死を予期していたのか葬儀や、墓の話まで及んだ。「できれば音楽葬で送って欲しい、親とも一緒に入れるお墓とか」
 ・・・また妻は「やっぱり一番頼りになるのはお父さんしかいない」とまで言ってくれた。いろいろ苦労かけただけに嬉しかった。「焼香順序」までノートに記してあった。臨終時に娘が「お母さんごめんネ助けられず」このことばを思うたびにつらい気持ちになる。

 でも妻とは、懐かしい楽しい思い出もいろいろあった。子供達三人家族揃っての旅行や、お互いに遊び心があり夫婦揃って祭り等に積極的に参加した。竜作りやヨサコイソーラン受け入れ準備等の手伝い、盆踊りでは、どうしても妻のチームに最後まで勝てなかった。
 妻は、家庭の太陽であっただけに、今でも出かけるとき、妻の写真を見ると、いつも微笑みで送ってくれる、勇気とやる気を与えてくれる。

歓喜の涙

 何と言っても最大の思い出は、妻が第九にかける意気込みはすさまじいものがあった。入院中常に枕元に第九のCDと楽譜が置かれていた。東京から帰ってきて深川市立病院入退院しながらも週二回の練習にも出来る限り参加し、何としてもひまわりコーラス二十周年記念公演「第九」を歌いたい執念に燃えていた。

 二十年十一月三十日、本番の日を迎えた。休みにもかかわらず病院の主治医、看護師まで会場に駆けつけてくれた午前中のリハーサルは、点滴を背にしょって椅子に座りながらこなした。果たして午後からの本番は大丈夫か不安の気持ちで一杯であった。
 しかし妻は、同じコーラス仲間と一緒になって堂々と胸を張って最後までなしとげた。会場は、五〇〇人を超えていた。いつまでも拍手がやまなかった。
 私の人生でこれほど感動、感激し涙がでた。これこそ歓喜の涙なのかもしれない、妻も恐らく同じだったと思う。早い人生であったが最後に大きな花を咲かせて散った。

● 追伸・・・自分史を終えようとした矢先に吉報が舞い込んだ。現町長から電話(平成二十五年二月二十六日朝)が入る。空知ナンバーワンを選ぶ「そらいち総選挙」で「遊ぶ」の部で「ひまわりの里」が一位となった!嬉しかった、思わず涙が出た。
 苦節二十五年やっとメジャーになった。私も含め町民みんなで成し遂げた「ひまわりの里」だけに感無量である。道がさっぽろ雪まつりに合わせて実施、道内外の観光客が一人一票、投票箱には、道職員が見守っているだけに不正は出来ない厳選な選挙である。自分史の最後を飾るビッグニュースであった。

メモリー

 私の人生(社会人になってから)で忘れがたいメモリーとして多少なりとも私が企画等に関係したことを箇条書きで記し残したい。

・S四十一年十二月 文芸同好会設立、翌年「荒土」発刊
・S四十一年四月  北竜クラブ(野球)設立
・S四十三年    日本大学法学部法律学科卒業
・S四十三年四月  北竜町青年団事務局長(〜四十四年)
・S四十五年四月  北空知青年団体連絡協議会事務局長
・S五十年十一月  北竜町青年団三十周年記念誌執筆
・S五十三年    第一回町民まつり企画「ひまわりと大陽の祭典」
・S五十四年二月  北竜町技能協会十周年記念誌「技」執筆
・S五十四年    金毘羅公園スカート作戦
          (大谷種苗社長より芝桜寄贈を受け裾野に芝桜を植える)町民に呼びかける
・S五十六年二月  龍泉寺青壮年会発足(若い人も寺になれ親しんでもらうことをねらい)
・S五十八年    文化連盟事務局「文化団体大同団結 十三 → 三十四団体
・S五十八年    老人大学クラブ活動に初めてダンスを導入(併せてひまわりダンス同好会を設立)」
・S五十八年十月  第一回マラソンソフト開催(十二時間試合・・・常にI〇〇名前後参加有り)
・S六十二年六月  野球場オープン記念試合(旭川龍谷・砂川北・札幌第一高校チーム招聘)
・S六十二年    第一回ひまわりまつり企画
・S六十二年八月  ひまわりコンテスト(ミスユニバース道代表・元年には日本代表招聘)
・S六十二年十月  市町村対抗ふるさと自慢・歌自慢三年連続空知大会優勝全道大会出場
・S六十三年    北海道中ひざくりげ誘致(ひまわりの里に竜が舞う)「NHKテレビ」
・H元年五月    ひまわりの里づくり(朝五時から一日で若者のボランティア造成)
・H元年五月    二七〇万石空知結ばん会発足
          (設立発 起人空知管内町おこしグループの会五十二団体一五〇人滝川市於)
・H元年十月    日仏青少年指導者セミナー参加(フランス十七日間文部省主催)
・H四年四月    札幌市と自転車の提供について折衝
          (ひまわりの里に三十台寄贈受ける)
・H四年八月    第一回健康と福祉のまつり企画
・H五年五月    ひまわりの町懇談会(地元中学生、青年婦人と横路知事・空知支庁長)
・H五年四月    「宝夢卵空知大集合」二七〇万石空知結ばん会北竜大会
          (二三〇名横路知事、細川空知市長等参加、研修・夢だしパート寸劇等大盛会)
・H六年五月    中国養成法・薬膳体験視察団参加(中国七日間展水省)
・H六年八月    伊藤多喜雄 in ひまわりコンサート開催(同年二月に元気を出そうライブ)
・H七年六月    イチイの森づくり(町の木、東大名誉教授どろ亀さん他二〇〇名)植樹
・H七年九月    北海道の将来を考える会意見を述べる(「北海道長期総計画」の策定)
・H八年四月    NHK朝のドラマ「ひまわり」のタイトルバックに本町の「ひまわりの里」が使われる
・H九年六月    どろ亀さん(高橋延清先生)より歌詞を戴く
          (イチイの森に建立「森には、美もあり、愛もある、ここには夢がある」)
・H九年八月    ひまわりシンポジウム「ひまわりは太 陽からのメッセージ」
          パネラー磯村みどり(女優)隈研吾(日本を代表する建築家)水野卓史(育生堂)他
・H十年二月    竜トピア会結成十周年記念誌発刊(竜トピア物語担当)
・H十四年四月   食農わくわくねっとわーく北海道設立発起人
          (消費者を中心とした農業応援団:当時会員一ハ〇名北海道内)
・H十四年四月   ひまわりボランタリー協会設立
・H十五年九月   第一回健康ウォーキング教室(全額国保連合会より補助金三年間)
・H十六年七月   元気村地域づくり研究所設立発起人(北空知の町づくりグループ)
・H十六年十一月  第一回文化サークルの集い開催
・H十六年五月   国際コメ年コメ大使に任命される
・H二十三年三月  拓殖大学北海道短期大学「環境農学科」卒業
・H二十三年十二月 ひまわりコーラスーメモリアル コンサート第九に出場

私の人生十訓

 まだまだ青二才のくせに、生意気かもしれないが、今日まで生きてきた経験から・・・
 私を支えてくれた人生十訓を記したい。

・夢は必ずかなう(志ある者は事ついに成る)
・あせらず、あわてず、あきらめず
・責めず、比べず、思い出さず(常に十思考で)
・気は長く、心は丸く、腹立てず、口慎めば、命長かれ
・和顔愛読(慈愛に満ちた言葉と笑顔)
・青春とは、年令ではない、情熱と好奇心さえあればよい
・ときめき(健康と若さの秘訣は、仕事でも、趣味、スポーツ、もちろん異性対しても)
・笑顔にまさる化粧なし(笑顔が健康と幸の種をまく)
・生きているだけで丸儲け(生きている限り望みがある、明石家さんまの言葉)
・心構(変われば)→態度→行動→習慣→人格→運命→良い人生

終わりに

・私の人生約七十年間は、順風満帆ではなくむしろ波乱万丈であった。でもその間隙をついて好きなことも思う存分にこなしてきただけに悔いはない。

 行政マン時代は、仕事はもちろん、町づくり、野球、遊び等で土・日関係なく飛び回っていただけに、家庭や子供の育成は、殆ど妻に任せきりであった。でも、子供三人が親に迷惑をかけずに育ててくれた妻に感謝と懺悔の気持ちで一杯である。この事が最高の幸せかもしれない。この幸せを妻と一緒にもっともっと長く味わいたかった。

 「人生とは、あざなえる縄のごとし(良いこと悪いことが交互にやって来る)」(中国の故事塞翁が馬)

・今でも「ときめき」をもって、白球を追って織りなすドラマは、まさに第二の青春が蘇るかのようで「還暦野球万歳!」と叫びたい。
・行政マン時代も公私共にやりたいことを多くの方々の力を得、やり遂げたことや手伝いが出来、幸せであった。

 (平成二十五年二月記)


北竜町民「佐光勉(さこう つとむ)さん」