2023年3月28日(火)
令和5年3月25日(土)午後4時、黄倉良二氏名誉町民祝賀会が、サンフラワーパーク北竜温泉にて開催されました。町民116人の方々が参加し、盛大にお祝いし黄倉氏の栄誉を讃えました。
黄倉良二氏は、北竜町では31年ぶり、5人目の名誉町民となります。これまでの北竜町名誉町民の方々は、後藤三男八 氏、村上朝夫 氏、松原作造 氏、森正一氏の4名です。
祝!黄倉良二氏「北竜町名誉町民」祝賀会
発起人(敬称略)
- 北竜町長 佐野豊
- 北竜町議会議長 佐々木康宏
- きたそらち農業協同組合 北清裕邦
北竜地区代表理事 - 北竜町商工会長 藤井雅仁
- 北竜町農業委員会長 水谷茂樹
- 北竜土地改良区理事長 深瀬純一
総合司会・進行は、北竜町役場総務課・南波肇 課長。
挨拶:北竜町長・佐野豊 様
ご出席の皆様におかれましては、お足元の悪い中、また年度末春作業を控え、公私ともお忙しい中、黄倉良二さんの祝賀会にご出席を賜り誠にありがとうございます。
本来であれば、昨年11月に開催を予定しておりましたが、新型コロナウイルス感染症拡大懸念から控えさせていただいておりました。大変申し訳ございませんでした。
この度、農業協同組合からのご推薦、並びに各農業団体長からのご厚意を賜り、令和4年(2022年)第3回議会定例会において、黄倉良二さんを名誉町民に推戴いたし、議員閣議のご理解を賜り、満場一致にてご同意を頂いたところであります。
これまで、北竜町の名誉町民は、4名の方がいらっしゃいます。昭和46年(1971年)10月に後藤三男八 氏、村上朝夫 氏、松原作造 氏、そして、平成3年(1991年)6月に森正一 氏が名誉町民となられておりまして、この度の黄倉さんが5人目となります。
黄倉良二さんは、高校卒業と同時に家業である農業に従事する傍ら、消防団、青年団などの地域に対する奉仕活動、陸上を通した体育普及活動を行うなど、幅広い活動を展開して、地域の信望を得、若きリーダーとして昭和46年(1971年)に北竜町表彰条例に基づく表彰の第1号を30歳の若さで受賞しております。
また、昭和48年(1973年)には北竜町農業協同組合理事に就任。自ら除草剤、化学肥料、防除のための農薬を一切使用しない自然農法栽培に取り組み、町内におけるクリーン農業の第一人者として、その普及並びに地域農業の発展に努められ、平成3年(1991年)には、北竜町農業協同組合代表理事組合長に就任されております。
黄倉さんの農業の取り組みは若い担い手達を刺激し、昭和63年(1988年)には農協青年部の提案で「国民の命と健康を守る安全な食糧生産を宣言」し、平成2年(1990年)には町、改良区、農業委員会がそれぞれ宣言を行っております。
以来、「食べものはいのち(生命)」の理念のもとに、農業と農協運動を通じて、心と体の豊かさを目指す農業と農村づくりに努められました。このような実践が組合員に浸透し、生産の基軸がクリーン農業への取り組みとなり、「北竜町産米きらら397」が、特A地区に指定されるなど産地評価の向上に努め、農協集荷力、単位当たり収量が全道一となる実績を納められました。
また、消費者交流にも積極的に取り組み、産地指定も100パーセントとなるなど北竜町産米の販売に努められました。
このような取り組みは、現在の北竜ひまわりライスの基礎を構築し、平成29年(2017年)には、晴れて第46回日本農業賞集団組織の部で大賞を受賞。「北竜ひまわりライス」は特色のある米作りで、道内外で高い評価を頂いており、ふるさと納税の返礼品としても人気となっております。
黄倉さんは、組合長就任当時から広域合併の必要性を説き、結果、北空知8農協による「きたそらち農業協同組合」が平成12年(2000年)2月に設立し、代表理事専務に就任。平成14年(2002年)6月より、代表理事組合長としてその手腕を発揮し、平成19年(2007年)4月に退任されました。
農協の役員を退任後の現在も、「百姓」として、「北海道有機農業研究会」監査を務められるなど、まだまだ現役としてご活躍いただいております。
今後は、少し肩の力を抜いていただいて、ご夫婦共々お元気で私たちにご指導賜りますようお願い申し上げます。ご出席の皆様には、ご健勝でのご多幸をご祈念申し上げ、発起人代表の挨拶とさせていただきます。本日は、誠におめでとうございます。
祝辞:北竜町議会議長・佐々木康宏 様
今回、議会・農協・商工会・土地改良区の推薦を受け、昨年9月の定例会で、議決を伴う最重要事項の中の名誉町民推戴を決定させていただきました。祝賀会の時期を決めるにあたり、当初年内を計画しておりましたが、コロナ渦の状況もあり、今日の開催となりました。
私の父と黄倉さんとは、60年・70年と長いお付き合いをさせていただきました。
黄倉さんが青年時代に駅伝部を作っていただき、北空知の駅伝に、佐々木チームとして出場、3位入賞を果たしたという記録が残っています。
父が商工会長で、黄倉さんが北竜農協組合長の時代、父が商工会総会に組合長が出ていただくことを黄倉さんにお願いしたところ、快く承諾してくたさったとのこと。その頃から商工会新年恒例会に組合長が出席していただくこととなりました。そのことは今もずっと続けられています。
当時は商工会総会(商工会議所)に農協組合長が出席することはありえないことでした。空知中・北海道中が驚くべきニュースになったことを覚えております。様々なことを乗り越えてやってきたことをありがたく思います。
世界でも名だたる小説にトルストイの『戦争と平和』があります。フランスがロシアに攻め込んで戦争をしたという事実に基づいた小説です。戦争を仕掛けられたロシアをしっかり守ったのが、大地を守る農民の心強い意思だったと聞いております。
黄倉さんは「名誉町民」のみならず、「日本の名誉農民」と感じております。世界の平和のために、様々な部分で言葉を発せられていると聞いております。
北竜の黄倉さんだけでなくて、「北海道の黄倉さん、日本の黄倉さん、そして、世界に平和を語りかける黄倉さん」であったいただきたいと思います。
今日の日を願っておりました。心からお祝い申し上げます。おめでとうございます!
祝辞:きたそらち農業協同組合北竜地区代表理事・北清裕邦 様
黄倉さん、名誉町民誠におめでとうございます。心からお祝い申し上げます。
黄倉さんは、農協理事として34年間お勤めいただきました。その内17年間は、北竜農協常勤、そして合併後はきたそらち農協の常勤として17年間頑張ってこられました。本当にご苦労様でございました。
私からは、私達が若い頃の黄倉さんの活躍ぶりを少しお話させていただきたいと思います。
今日黄倉さんが用意していただきました資料を読めば全部書いてありますが、記憶の限りお話させていただきます。
私が青年部時代の30歳代の頃、今から30年くらい前のお話です。黄倉さんは北竜町農協の常勤として私達の前でお話をされていらっしゃいました。その時の「黄倉語録」と称する、毎回同じお話を少し紹介させていただきます。
「食べものはいのち(生命)」「この山、この木、この緑、それに支えられた力のある豊かな水を大切に、家族が力をあわせて、手を技術と心を尽くし、生命と健康を守る安全な食糧生産をすること」、このお話を若い頃から何回も聞かされておりました。
最初は何を言っているのわかりませんでしたが、黄倉さんから説き教えていただいき、なるほどと理解でき、私達青年部は、安心安全な米づくりに邁進いたしました。
黄倉さんは色んな人脈をお持ちで、お客様との面談や懇親など、様々な交流の機会を作ってくださいました。東京の株式会社マコトの山崎峰子 社長、生活協同組合ナチュラルコープヨコハマの豊田己津男 部長、JA沖縄と繋いでいただきました高井瑞枝さんです。現在も、ひまわりライスの直売先などとしてお付き合いを頂いております。
また4年前の2019年、北竜農協時代に姉妹提携した愛知県の「JAひまわり」。合併30周年の記念事業があり、黄倉さんがそこにご招待されました。
私は鞄持ちで一緒に同行させていただきました。移動中、電車に乗っているときもメガネをかけずに本を読んでいらっしゃいました。揺れる電車の中で、しっかり本を読んでいらっしゃいました。本当にびっくりしまっした。
そして30周年の祝賀会が終わり、当時は権田組合長、歴代組合長さん、職員の皆さんと黄倉さんを囲んで接待をしていただきました。1時間ちょっとでありましたけども、黄倉さんは最初から最後まで、農協運動のこうあるべきということを熱く語っていらっしゃいました。その情熱とエネルギーは、本当に凄いなぁと感じたことが思い出となっています。黄倉さんは、ずっと情熱をこめてお話をしていただいています。
余談になりますが、先程町長からお話がありましたが、黄倉さんが師と仰いだ後藤三男八さんは、昭和46年(1971年)に名誉町民に推挙され、その後令和になって黄倉さんが名誉町民に推挙されたということは、何か強い縁を感じます。しっかりと後藤さんの教えを守って生き抜いた生き様は、私どもにはなかなかできないものと心から思います。
黄倉さんにおかれましては、80歳を過ぎましたので、どうぞ健康に留意されて、私どもに情熱のある熱い話をしていただければと思います。
黄倉家、皆さん、幸多からんことを願いながら、お祝いの言葉とさせていただきます。黄倉さん、本当におめでとうございます。
謝辞:黄倉良二 氏
12日間声が出ない病を患い、深川市のクリニックの先生に、なんとか今日一声出るようにと、ご努力をいただきました。ありがとうございます。お聞きづらいでしょうが、お礼を申し上げたいとおもいます。
平成19年(2007年)、きたそらち農協を辞める時に、早崎優美 新組合長から「名誉組合員の年月をあなたは踏襲されている」というお話をいいただきましたが、「農協の主役は組合員であり、我々役員・職員ではない」と辞退しました。
また、佐野町長から何度か、名誉町民にというお話をいただきました。しかし、私は後藤三男八氏の教えを大事に生きてきましたから、「地位と名誉と金を求めるな」という教えを死ぬまで通させていただきたいと話をして断ってきました。
ところがある時、北清裕邦 地区代と水谷茂樹 農業委員会長が同席をされて、水谷農業委員会長から「黄倉さん、あなたが言ってきた『食べものはいのち(生命)』、『生きる人の生命を守る農作業』に、私達は一生懸命に取り組んできました。あなたが訴えられてきた『産商提携生命の架け橋、商産提携生命の絆』、これを実行してきたのは私達です。私達のために受け取ってください」と言われ、参りました。
北清青年・水谷青年といっておりましたが、「あ〜成長されたな」と感じ入り、老いては子に従い受賞させていただきました。
先日3月9日に、寺内さんから貴方の人生をまとめさせてくださいというお話をいただき、寺内さんのお宅で4時間半止めどないお話をさせていただきました。寺内さんが小冊子にまとめてくださり、私の宝になりました。ありがとうございました。
小学校1年生のとき、私の身体はこんなに曲がっておりました。母親が私を産み落として、乳を出すことができない。小学校1年生の入学時には、栄養失調「くる病」と診断されました。この写真は、子どもたちにも見せたことがありません。
じいちゃんが、廃牛を1頭用意してくれた。畦草を食べさせ乳を絞って育て、こどもたち6人の兄弟の生命を守ってくれました。本当に家族を思い子供を思うという先祖の心に熱いものが蘇ってきました。
昭和29年(1954年)第5福竜丸はビキニ環礁で、アメリカの水爆実験によって被爆し、久保山さんが亡くなりました。9月には洞爺丸台風、大きな被害が出た年。12月には、私の本当の転機が訪れました。
12月に、農協より離農勧告を受けました。「黄倉さん、これ以上保証人に迷惑をかけられないぞ、やめてください」と。
黄倉家は、身体の弱い叔父を含め12人家族でした。兄は「おれの人生は百姓ではない」とすぐに家を出ました。以来毎晩、父親と母親がどうやって生きるかと話をしており、母親は「死ぬしかない」と話しておりました。障子1枚の家では、すべて話は筒抜けで聞こえていました。
そのうちに後藤三男八さんが我が家を訪れて、両親に「良二を残せ! 俺が、硫安・カリン酸・塩の保証をしてあげる」と。えん麦を食わさなければ馬は脚気で亡くなります。正当派の馬喰の杉本清松さんが、それを知り、ドラム缶を輪切りにして納屋に2つ埋め、藁を切ってお湯で溶かしたカーバイト(石灰)を入れ一日老いたものを馬に食べさせると、馬は太ることはないけれど脚気になることはないということを教えてくださった。
この二人に助けられて、借金を返すための百姓が始まりました。
私は悲しいとか情けないとか思ったことは一度もありません。後藤さんは会う度に「良二、働け、我慢をせ、貧しいことは恥ずかしいことではない。おまえが一生懸命働けば、必ず多くの人が見てくれる。おまえを助けてくれる。良い人を世話してくれる」と、何度も声を掛けてくださいました。
私は、後藤三男八さんを崇拝し尊敬し、そのひとつひとつの言葉を大事に追い続けています。
昭和47年(1972年)11月2日、後藤三男八翁に呼ばれました。隣に息子さんの亨さんが同席する中、「私は来年3月11日の総会で引退をする。ついては中村利弘さんを出したい」と。
中村さんは、2町8反で無借金で農業をされている。26歳の時に、「雪を掘る 土を掘る 頭さえみえず」という歴史に残る俳句を読んだ方です。当時、久米谷さんと黄倉を農協の役員に出すという声もあがっておりました。
後藤さんは「おまえらが候補に上がっているのは聞いておる。反対はしない。もし、役員に選ばれたら、俺が言う3つのことを忘れることなくしっかり実証せい」。
私は中学校6割、北竜高校は2割くらいしか行っておりません。「おまえは、学校に行っていない。従って酒を飲むな、パチンコするな、遊ぶな、少しでも金が溜まったら本を買え。本を読め。必ず、血となり肉となる」。
当時は、米が余り転作が始まった時代。「やがて日本の社会は食べるものが無くなる。そのことを自分で考え、実践をして、組合委員に認めてもらって農協の需要に反映できる努力をせ。
農協の役員は『地位と名誉と金』を求めるな。もし、そのことに気づいたときは農協役員は辞めれ」というお話をいただく。
後藤さんは息子の亨さんに、「良二は家で酒を飲めないから、酒を一杯飲ませて帰せ」と言い渡す。そこで後藤さんの話が終わると、亨さんは必ず一杯の酒を勧めてくれて、その酒を亨さんと飲みながら、亨さんは「親父はどんな想いで良ちゃんに話をしているのかと」いう解説をしてくれました。
私は昭和48年(1973年)の4月から、農協の非常勤役員として理事会の案内を受ける後藤さんを訪問して、理事会の内容を報告しました。後藤さんは一言もしゃべらない。報告が終わると、「亨、良二に酒を一杯飲ませて帰れ」というやりとりは、後藤さんが床に付くまで続けられました。
その中で亨さんは「親父の言った意味は、日本が高度成長を続ける限り、人間の本物の食べものは生産できなくなると言ったんだよ。良ちゃん、二人で自然農法をやってみよう」と言ったは、昭和48年(1973年)の春のことでした。
親父の気持ちを解説してくれた亨さん。後藤さんが心配していたこと「北竜には貧しい組合員がたくさんおる。どうやって農協が農業持続的負担の力を貸せるか」「北竜はお米の産地評価が低い。どうやってこれを上げるか」「近代化事業のため北海道を代表して事業を進めている。従って「業者と職員の癒着」これがあっては絶対にならん」という話を亨さんから聞いていました。
当時の米の産地評価は、北海道4段階で北竜は「C」でした。深川・妹背牛・秩父別が「A」です。北海道の産地評価は非常に厳しく、一等米市価・収量閉鎖・冷害の度合いが少ない農家が、北海道産地指定の基準でした。北竜町の厳しい沢の中での農業は、一生懸命だったと思いますが厳しい状況でした。
深川市で水稲品種「ユーカラ」が認められ、北竜町は「ユーカラ」不適産地に指定されました。青年部の冨井廣さん、山本雅規さんは、「冗談じゃない、おれは百姓だ、なぜ『ユーカラ』を作れないんだ!」。
北竜の安全な米をより豊かにするための努力がここから始まったと思います。二人が「熟苗運動」に取り組まれました。苗を植え替えて、積算温度を積み重ねるという努力。成功はしておりませんが、今でも、冨井くんと山本くんの「冗談じゃない、おれは百姓だ、深川に負けるか!」という熱い魂が、今の北竜の起点となっていると思います。本当にありがたい。
私は、今も後藤さん、亨さんを追い続けています。周回遅れで3周も4周も5周も遅れています。しかし、死ぬまで追い続けていくと思います。
今年1月27日に、帯広市川西農業協同組合(JA帯広かわにし)に呼ばれました。北海道農業を牛耳っていると言われているかわにし農協の有塚利宜 組合長は、3年前に全国の総合農協の中で「かわにし農業は初めて有機農業に取り組む」ことを宣言しました。
しかし、どうやって有機農業に取り組むかという道は定かではありませんでした。そこで、二人の職員に3か月間、全国の先進地を調査をさせました。調査した結果、かわにし農協では、北竜農協の取組みに学ぼうということになりました。
北海道農業界の重鎮・有塚利宜組合長は、ホクレン、信連、北海道農協中央会、厚生連等あらゆる機関のトップ・常勤者の決定に強い影響力を持っています。有塚さんは私が現役の時に、「浜中町の石橋榮紀さんと北竜町の黄倉良二は、ホクレンと中央会と信連の役員には絶対にしない」とおっしゃっていました。
その後、かわにし農協の二人の職員が北竜の温泉に泊まって、「是非、黄倉さんにお願いをしたい」という。有塚組合長から「黄倉に何を言われてもいいから呼んでこい!」と言われた。
北海道有機農業の瀬川守さんと行く予定でしたが、瀬川さんは1月8日に72歳で亡くなられました。一人で伺い、2時間、青年部と若い職員に話をさせていただきました。
有塚組合長は、最前列で聞いていました。講演後、大歓待を受け、若い衆が「3次会で是非、黄倉さんと話がしたい、お酒を飲みたい」と、12時半まで懇談をしてまいりました。
それが今日皆さんにお渡しした「522回の講演会の趣旨」は一度も変わっておりません。
今日皆さんにお渡しした封筒の裏に明示されている言葉は、後藤三男八さん・亨さんの教えを積み重ねてきたものです。
これからも身体の続く限り、後藤三男八さん・亨さんの教え、姿を追い続けて参ります。
祝宴・乾杯:北竜町商工会長・藤井雅仁 様
この度は、黄倉良二様の名誉町民推戴、誠におめでとうございます。黄倉様の米作りに対する情熱は、町内農業者の良き手本にして脈々と受け継がれております。
また、農協青年部・商工青年部が連携して、米の販売やチームアグリファイターノースドラゴン活動を行うなど、今後とも農業・商業が一体となって、北竜町農業を盛り上げていきたいと考えております。
黄倉良二様のご健康でのご活躍と本日ご参加の皆様のご健勝をご祈念いたしまして、乾杯をいたします。乾杯!
祝宴
万歳三唱:北竜町農業委員会長・水谷茂樹 様
- 水谷会長:おめでとうございます! みんなで元気に万歳三唱しましょう!
- 会場 :え! それでおわり?(爆笑!)
- 水谷会長:余計なことは喋りません!
- 水谷会長:大倉良二 万歳! 万歳! 万歳! 天と地と水 万歳! 万歳! 万歳!
お見送り
盛大に祝宴の幕が降り、最後はホテル玄関にて、黄倉家の方々が皆さんをお見送りいたしました。
記念品
「食べものはいのち(生命)」の魂を伝え続ける北竜町名誉町民・黄倉良二 氏のたゆまぬ努力と輝やく栄誉に、限りない愛と感謝と祈りをこめて。。。
その他の写真
522回続けている、交流(講演)の主題
産消提携・消產提携・ 命の懸け橋命の絆
巾広く、 ねばり強く、 あらゆる分野で
歴史と世代を超えて交流する
- この世で最も大切なもの、 それはいのち(生命)
- いのち(生命)を守り育むもの
- 農業とは
- 持続可能な発展を目指す提言と宣言
- 本物とは
- 北竜町が目指す 「農業保全型環境」への挑戦
- 天に感謝し、 安全な食糧生産を持続する品質管理
・山と木と緑を守り、力のある豊かな水を確保すること
・世代を超えて、誇り得る土を伝承すること
・百姓の技術と魂を磨き続けること
・意欲ある担い手を具備すること - 真の豊かさ、 真の幸福を目指して
・えの克服 (心と身体と社会の飢え)
・健康の回復 (心と身体と社会の健康)
・安全に暮らせる社会の構築 (心と身体と社会の安全)
・戦争と災害の無い村で、 町で、 都市で、家族が健康で働き、 家族が健康で暮らし、その営みを通じて、 人と地域と社会に貢献すること
平和の祈りヒマワリに込め
北海道新聞「読者の声」(2022年8月13日付け・朝刊)
2022年8月15日(月) 北海道新聞「読者の声」(8月13日付け・朝刊)に、北竜町在住・黄倉良二さん(84歳)の投稿が…
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◇ 撮影・編集=寺内昇 取材・文=寺内郁子