「羆(ヒグマ)を追って」篠原常夫

2014/02/23 13:55 に 寺内昇 が投稿   [ 2015/06/29 0:02 に更新しました ]

篠原常夫 氏  私が狩猟に魅せられたのは父の狩猟に同行したのが、きっかけであった。
 当初は父の撃ち落した鴨の回収が役目である。何度か同行しているうちに自然と興味を持ち始めた。歩く事の少ない職業柄、体力をつける恰好のスポーツでもあり、意を決して狩猟免許を取得する事にした。同時に銃砲所持許可も受けた。昭和三十三年取得で今から五十二年前の事である。

 自然の山野に歩を進め、息をひそめ無心に獲物を求める。真に三昧の境地である。目的の沼へ向かう。朝露で水面が霞んでいて、鴨の姿が見えない。突然、水草の陰から数羽の鴨が飛び上った。間髪を入れず中の引金を引く。鴨は、もんどりうって水面に落下、弾丸に当って飛散した数枚の羽毛が朝陽に照らされ、花びらのように、揺れながら落下していく。その光景は心を存分に癒してくれる。犬が鴨を回収して足元に座る。正に猟の醍醐味である。

 私の猟は鴨猟が主流で、動物を目的にする事は殆んど無かった。私が猟を始めた頃、この地域は野生の鳥獣が多く、必然的に猟を趣向する人が増えてきた。町内のハンターの人数は十七人程おりまして、猟友会組織があり年に何度か合同の猟があり、捕獲した獲物を手料理で、腕自慢に花を咲かせながら酒を酌み交わした楽しい一時が思い出される。

 近年、山野の開発と河川の改修により、自然が崩れ、対象の獲物が激減し、ハンターの数も往時の五分の一になった。この数字は、この地域だけでなく、全国的な傾向である。しかも高齢化し若者のハンター志向が少ない現状である。

 野生鳥獣の生息数の均衡を計る重要な役割が狩猟でもある。特に近年、エゾ鹿の増加で農林業の被害額が五十億円と巨額の被害をもたらしている現状だ。この事から一昨年の国会で「有害鳥獣被害特措法」が成立し、国の補助政策で各自治体に「鳥獣被害防止対策協議会」の設置を求め、その対応に猟友会員も必然的に協力することになった。

 この事から私も動物を対象とした有害鳥獣駆除をせざるを得なくなった。役場からの有害鳥獣駆除従事者の依頼が発せられたのは数年前からである。
 通常猟期は十月一目から翌年一月三十一日までだが、有害鳥獣駆除は猟期外の五月頃から九月末日までの期間である。
 駆除目的で時折、地域の山野をパトロールし出来る限りの被害軽減に努めているところです。

 平成二十年九月。北竜町でかつてない熊の事件が発生した日である。
 例年になく残暑が続き、少なからず心身共に、ばて気味である真竜神社秋の例大祭で、ひと時を楽しんでいた昼さがり、猟友であるS氏より小豆沢北雨地区に熊の糞と足跡があるとの報せがあった。町産業課にも此の事について知らせた由、早速現地に急行し、出没箇所の状況を見ることにした。

 小高い丘陵が続く耕作地の一角に堆肥置場があり、近づくと何とも言えない腐臭が鼻を突く。よく見ると腐敗したジャガイモが大量に堆肥の中にあった。恐らくこの強烈な臭いに誘われて熊が食物を求めて、やって来たものだろう。

 高く積み上げられた堆肥の斜面に、点々と熊の足跡が散見された。その脇の農道に糞が一ケ所あった。足跡を計測すると約三十糎ありかなり大物の熊と思われる。
 翌日から此の地域を中心にパトロールすることにした。ましてや地域住民の被害が心配される。今後を想定して町産業課と情報交換を行いながら、熊の捕獲を検討する段階に入った。

 数日後、S氏より小豆沢から一の沢に抜ける「ひまわり街道」の舗装道路上に熊の足跡があるとの知らせで、町産業課の職員と現地に向った。道路上に印を押したように、鮮明な熊の足跡が道路を横断していた。計測すると約三十糎、先の堆肥場にあった足跡と同型だ。最初の発見以来この附近を徘徊しているようである。すでに十目を経過している。過去の例では一日か二日位で山に戻るケースであり、長く居座るケースは 二十二日早朝、北雨地区にある渡辺要二氏の耕作地の一隅に大量のスイカが捨ててあり熊の糞が数ケ所に散見された。かなり前から出没していたようである。

 翌日も、この場所に来てみると、真新しい食痕がスイカに見られた。スイカが大量に残っているので、当分の間、餌場としてやって来るであろうと推測した。熊は夜行性である為、続での捕獲が難しい。この出没状況を考えると罠をかけるのが得策であろうと判断した。

 道猟友会北空知支部長をしている関係で、管内で熊に対応するベテランハンター数名に協力を求め、捕獲方法について協議した。一つは熊の居場所を包囲して銃で捕獲する「狩り」の方法。一つは「檻わな」を設置して捕獲する方法がある。現地の状況からして、「檻わな」にすることにした。
 この旨を町産業課に傳え、直ちに「檻わな」使用の有害鳥獣駆除申請手続きをするよう依頼した。

 猟友の情報で「檻わな」は幸にいにも、幌加内で養蜂業をしている方が、蜂の巣箱を熊に襲撃されない為に自衛手段として檻を待っていて、一台は使っていないのでお貸ししますとの事で、早速お借りに参上し、設置の準備に入った。
 檻に経験のある猟友四名で檻の作動の点検をし、数ケ所に不具合を見つけ、修理作業で一日を費やした。

 二十五日早朝、期待を込めて、先に予定していたスイカの捨場に設置した。檻の中に仕掛けとして熊の好物の蜂蜜とスイカをセットし、熊の入るのを祈った。

 連日、罠の監視と附近のパトロールを続ける。罠の中にあるスイカを食べた形跡はあるが、しかし仕掛け台の上に乗らず、なかなか利口な熊だなと我ながら苦笑したところである。檻の附近は熊の糞が、ごろごろと散在し、隣接の農道に新しい足跡も見られる。熊の存在は確かである。早く入って欲しいと願うばかりだ。

 十月一日、待望の一般狩猟の解禁日を迎えた。早朝五時、北竜部会猟友一同と待ち合せ鴨猟に向った。町内の溜池を順に追って回り、一応の戦果があった。夜は恒例の初猟会で鴨鍋をしようと昼近く散会した。

 帰宅して間もなく先刻別れたばかりの猟友のS氏から電話があり、「帰宅途中、共栄の町道に真新しい熊の糞があった。朝この道を通ったときは糞は無かった」との事である。
 昼食をすませ、確認に向った。知らせの通り、道路の中央に黄緑色のこんもりとした糞があり、中に「コクワの実」が大量に混ざっていた。正に生々しい糞である。
 附近を見回ったところ、百米程離れた道路上に熊の足跡を見つけた。約三十糎あった。直感的に小豆沢に出没していた熊がこちらへ移動したなと思った。
 近くの民家まで約四百米の距離だ。危険な状況にある。翌日からこの方面にパトロールの重点目標を移すことにした。

 四日の夕方、パトロール中の猟友のS氏から「医師の浦本氏宅から約二百米離れた所に養蜂の巣箱置場があり、その巣箱が壊された、熊の仕業である」との知らせを受けた。これは容易ならざる事態であり、私も現地を確認したが、巣箱が無残に散乱し、熊の力の偉大さに驚きを感じた。
 町産業課と警察駐在所へ、この状況を連絡し、パトロールを強化することにした。

 翌日、沼田警察署から現地を視察したいと電話があり、署長と担当課の方を現地に案内し熊の動向を説明した。視察の結果として、町道の一部を閉鎖するよう、警察署から町に指示が出た。

 六日、猟友会のメンバー数人で、小豆沢地区の熊の動向と共栄地区の状況の関連について再確認することにした。どうも小豆沢地区では、ここ数日、糞や足跡の痕跡がない事が解った。小豆沢に設置した檻を共栄地区へ移動することに猟友会で決断した。

 七日、早朝から檻の移動に猟友会のメンバーで作業に当った。猟友のM氏は大変器用な方で、車のレンタル業からユニックのついたトラックを借り、上手に操作する手順には感心した。
 共栄地区に設置する場所の選定に当り、熊の行動範囲を念人りに推定してみた。糞と足跡の位置、蜂の巣箱の位置。今後も巣箱を漁る傾向があるとすると、一つの円で繋がる。その円の一点を限定してみた。私の意見に猟友のメンバーは了承した。
 設置の位置はサンフラワーパーク温泉横の共栄北雨耕作地に向う町道の突き当りで川田浩二氏の耕作地の一隅に設置することにした。設置を終え、夕日が山の稜線を赤く照らしている。熊が檻に入ることを願い夕日に祈った。

 ハ日朝、檻の確認に行ったが入っていない。帰りの途中、道路脇に新しい熊の糞があった。熊は間違いなく附近にいる。期待したい。

 九日朝、目を覚ますと未だ暗い。再度、眠ろうとするが、目が冴えて落着かない。時計は五時十分を指している。屋外が白み始めた。檻わなが気になる。引かれるように身支度をして、銃を待って現地に向った。
 草陰から、そっと檻を覗くと、熊が入っている。近づくと目線が合った。熊は立ち上がった。胸が高鳴る。決挙だ。捕獲目的の達成感が一挙に全身に侍わる。設置が見事的中した快感が頭をよぎる。高ぶる胸を抑えながら帰宅した。

 さて熊を処理する段取りである手順の行程をメモした。関係者に捕獲の報告と今後のスケジュールを連絡し八時に現地集合の手順をとった。

 現地に着くとかなりの人が見物に来ている。熊が檻の中を右往左往しながら落着かない様子だ。止め刺し(檻の中で銃殺する)の準備に入る。かねてより沼田町の猟友A氏とこの捕獲作戦を共にしていた経緯もあり、彼は熊捕獲のベテランで過去十数頭の実績を上げている。A氏に止め刺しをしていただくことにした。

 午前八時四十分。一発、二発と銃声が鳴る。熊は、沈みこむように倒れた。暫らく様子を見て絶命を確かめる。足で熊を蹴ると少し反応がある。三発目を発射、息の根を止めた。熊との知恵競べが、あっけなく終了した。猟友会員の手で檻から熊を引出し、A氏は慣れた手付きで開腹し内臓の処理をした。唯一高價な胆嚢を捕獲の代表として私に提供してくれた。
 記念撮影をするため、ユニックで釣り上げ関係者が熊の前に立った。人間の頭頂が熊の胸のあたりである。優に熊は二米強の背丈である。体重は約四百キログラムと推定する。

 熊の最終処理の計画を立てねばならない。町関係者の判断と猟友会の協力体制で進めることにした。町長が現場にいらしたので「熊を剥製にして町に保存しては如何でしょうか?」と尋ねると、その方向でよろしいとの返事で最終処理の方法が決った。
 解体処理は産業諜の指示で役場裏の車庫で行う事になった。
 剥製にする為、慎重な皮剥ぎが求められる。巨大な熊だけに解体に苦労した。見物に訪れる町民が後を絶だない。
 私の職業柄、歯に関心を持ち口内を見た。その所見として虫歯が十数本あり、野生の動物が虫歯に罹患していると思っても居なかっただけに驚きである。歯の形状からして十歳位と推定した。
 午前十時頃から始まった解体処理は午後三時半頃終了。かねて打ち合せておいた札幌の剥製業者が四時に引き取りに見えた。
 熊の捕獲作戦、全日程がこれで終了したことになる。

 この熊の移動経路を綜合してみることにした。
 八月中旬に雨竜町で熊の出没情報があり警戒していたそうである。牧岡での出没情報が最後だとのことでした。
 熊捕獲の翌日、妹背牛町の養蜂業、高見さんから電話で熊捕獲のお礼があり、一連の熊による養蜂場の被害の話があった。高見さんの巣箱置場は北空知管内に十数ケ所あるが、この度の北竜町と雨竜町で三ケ所が熊の襲撃を受けた。よろしければ雨竜町の現場を案内したいとのことで高見さんと同行した。
 先ず雨竜ダムの近くにある襲撃された場所、次いで川上地区、三ヶ所目は驚くなかれ日の出ドライブインから恵岱別川沿いの道路を上流に四百米程離れた丘陵地に巣箱置場があった。散乱した巣箱の周辺に熊の足跡があり計測すると三十糎。先日捕獲した熊と同型であった。

 推測ではあるが南暑寒岳(以前に雨竜猟友会が、この場所で春の駆除で数頭捕獲している)で生息していたと思われる。雨竜ダムを経て川上から追分、渭之津、牧岡から三谷を抜けて小豆沢地区に入ったものと線が引かれる。
 恐らく高齢でボスの座を追われ、縄張りから追放され、里に長く居座るようになったと推測される。依ってこの熊を私なりに「暑寒太郎」と命名することにした。

 さて物事の後は直会である。熊の後始末を終え、猟友会と関係者による反省会を兼ねて祝杯を挙げ、熊鍋に舌鼓を打ちながら熊談義に花が咲いた。


北竜町民「篠原常夫(しのはら つねお)さん」