「自分史」木村和雄

2014/02/16 13:53 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/02/16 14:06 に更新しました ]

木村和雄 氏  旧満州東安省北五道の地で、木村家の六人兄弟姉妹の三男として、昭和十六年二月二十三日に私は生まれた。

 当時のことを記憶しているわけではありませんが、これは父が健在であった四〇年以上前に、よく話をしていた事の一部から自分の生い立ちを知る事ができるからである。

 父は当時、日本の政策として進められていた満州国の開拓団の一員として、昭和十三年に家族を連れて入植した。懸命な努力の結果、数年で住宅の建設と農地の開拓が進み、経営と生活の基礎が整いつつあった。

 しかし、第二次世界大戦で敗戦が色濃くなった昭和二〇年八月初め、突然避難命令が出されて、裸同然で敵からの逃避生活をせざるを得なくなった。敵の銃撃をくぐり抜けながら、何としても生き延びようとする過酷な状況が数か月続く事となる。

 人間生き延びる為に、まず食料が必要である。食料不足による栄養失調と疲労と病気等が重なり、次々と倒れる者が続出した。人間は、極限の状態になると人の事などかまっておれない。足手まといになる者は、捨てられたり、見殺しにせざるを得なくなる。そんな状況の中で、我家の家族八人のうち生きて帰国できたのは、父と姉と私の三人だけとなった。もしあの時、捨てられていたら今日の自分は存在しない。良くても中国残留孤児の身になっていたかもしれない。

 日本への上陸地は舞鶴港である。そこから父の故郷山形へ。敗戦直後の社会の混乱と大変な食糧不足の時代、そこに定住できる環境はなかった。生活出来る地を求めて、北海道の滝川へ、芦別へと半年、一年と点々として食いつないできた。定住の地を求め、父が本格的な第二の開拓地として選んだのが北竜町一の沢である。

 昭和二十二年五月から夏は開墾、冬は山の造材作業等で生計を立てた。次々と移住してきたこともあって、私の小学校入学は正規より一年遅れの昭和二十三年の四月からとなった。相変らず食料不足時代で米の飯等は滅多に口に入らない。とうもろこしの粉、イナキビ、芋、麦、かぽちや、フキ、ワラビ、野うさぎ等何でも食べた。白い米の飯はあこがれの的。小学三年生頃までは白い弁当を持っていくことが出来なかった。

 一の沢で飯米だけでも確保したい強い思いから、昭和二十五年頃より水田を作り始めた。生活と経営を成り立たせる為に水稲は重要な作物として力を入れた。
 それに必要な水の確保の為にダムの建設にとりかかり、各関係機関の御協力を得て、完成したのは昭和三十三年である。その後本格的な迫田に取り組み、川を自力で切り替え、区画整理しながら規模の拡大に努めた。

 自分で自分を評価するのはどうかと思うが、頭はあまり良くないが、小学校、中学校、高校の成績は中の上位かと思っている。多感な中学校から定時制の高校に於いては、自我の意識と異性への関心が強くなり、好きな女の子がいてもドキドキして話もできない事等、他人と比較して、過剰な反応や劣等感を持って、心の晴れない事も多かった。

 しかし、定時制高校の後半になってからは、課外授業で、好きなスポーツを通して、恩師の上田先生の指導を受け、砲丸投げの方法を学んだ事や、町民体育大会、各地での駅伝大会、北空知青年団体連絡協議会の体育大会等、走ったり、跳んだり、投げたり、仲間と共に思い切り体を勤かす事で、何とか自分らしさを保つ事が出来たと恩っている。仲間と共に先輩の田中さん、金山さん、黄倉さんには大変お世話になりました。

 そうした中で青年時代のスポーツの集大成とも云える、全国青年団体連絡協議会主催の全国青年陸上競技大会に出場する事が出来ました。東京の代々木国立競技場に於いて三種競技に出場し(走り幅跳五m五四、砲丸投一一m二九、一五〇〇m四分四五秒)、得点は一九〇点となり、電光掲示板に三位、北海道、木村和雄と表示された(昭和四十一年十一月十二日)。

 昭和四十二年六月二十三日、平林平二さんの仲人で土佐トシエと結婚し、長女あゆみ、次女幸子、三女みゆきが誕生した。前後しますが、父は昭和二十三年四月、高田タキ(義母)と再婚し、その後生れた妹達(クマ子、つや子、久子、信子、勝子)が居りましたので、大変にぎやかな大家族となりました。

 農業、農協、農村は密接な関係があります。全町的に昭和四〇年頃より農業の構造改善事業が行われ区画整理や用排水の整備が進められました。それと共にトラクターの導入がなされ耕起代掻等の作業効率は大きく向上した。

 一の沢地区は山間地帯に細長く、立地条件が悪く、河川敷地等の問題があり、補助事業による基盤整備事業の対象外となり、区画整理や用排水の整備は大幅に遅れた。
 昭和四十七年になって、何とか自己負担によってでも基盤整理をしようとの話が総り、一〇a当り二万円の負担を目どに、農協が事業主体となり、融資事業で行った。この事は個人の考え方に大きく左右される事となり、区画整理や芸道等、作業効率の面で大きなマイナス面が生じた。

 農協の組織の一部である農協青年部活動(昭和四十二年から五十三年)では、活動の原点として綱領に掲げられている次の三つを目標として活動を展開してきた。

 一、われらは農業協同組合の本質と実際を究明し、農協運動の先駆者となる。
 一、われらは政治的自覚を高め農民生活の安定を目ざす民主的農業政策の確立に努める。
 一、われらは青年の情熱と協同の力を持って農業の近代化を促進し理想農村を建設する。

 理想と現実には大きな隔たりがありますが、少しでも理想に向って試行錯誤を繰り返しながら、世代を超えて引き継いで行きたい原則であると思います。同世代だけでなく、地域の皆さんとの繋がりを大切にして活動を展開してきました。

 開拓二代目への移行期に当り、既存の歴史ある地域と異なり、無一文に近い状況から親の苦労と頑張りを見てきた一の沢の後継者は、進取の気質に富んでいたのではないかと思います。条件の悪い地域だからこそ共に生きていく為の仕組作りが必要であるとの認識を深めることが出来ました。

 全町的な営農集団組織の推進に合せ、昭和四十九年に一の沢営農集団が設立された。人口の最盛期(昭和三十一年二十三戸、百三十一名)からこの時点では十二戸、六十九名となりました。①トラクター利用組合の設立。②ライスセンターの設立。③共同育苗組織の設立。④希望者による養豚事業への取り組み等、次々と事業を展開してきました。

 立地条件が悪く、規模の小さな地域に於いて、山を開発し農地の拡大を図ろうとする北竜と雨竜にまたがる、国営の北雨農地開発促進期成会が昭和五十七年に設立され、関係機関の協力を頂きながら、六十三年に完成し、農用地として利用が開始されました。
 夢と希望を持って開いた畑であるが、予想外の地力の欠乏と畑作技術の未熟さ等重なって、未だに成果が充分に上っているとは言えない。

 時期が重なる様にして、離農による後地の引き受けと、規模の拡大、それに伴う資金の借り入れとその償還計画は、米価六〇Kg当り二万五千円を想定しての事だったが、その後の急激な低米価(一万二千円)となり資金償還に苦しむ事となる。

 経営の継承と農業者年金との関係もあり、平成十六年より農業研修生を受け入れて、実習に携わって貰いましたが、三年を経過した十八年になって、受け入れ側の経営が大変厳しい事と、それを乗り越えていくには、意欲と情熱が無ければ継続していく事は出来ない。双方の判断から断念する事としました。

 それから七十才になる今日までの五年間、水稲一一二〇a、畑一一〇〇aを作付し頑張ってきました。
 自分の気持ちとしてはまだまだ、どんな形にしろ、元気なうちは農業に関わっていたいと思いますが、色々な事情でやめざるを得なくなると思います。自力で出来る範囲は限られてきています。

 色々考え先の事など心配すれば切りがありません。時の流れに身をまかすという心境で無ければ、生きて行く事は出来ないかもしれません。

 今ここで自分の出来る事は何か、ということを中心に考え、実行する事が大切だと思います。今後の事は時間の経過と共に、命尽きるまで、何らかの活動ができれば、それはそれで幸せな人生だと思います。

平成二十三年一月三十一日


北竜町民「木村和雄(きむら かずお)さん」