町民みんなで成し遂げた「ひまわり」の町
前北竜町ひまわり観光協会会長・佐光勉
元北竜町役場職員 産業課商工観光係で永く観光業務に携わり、町民まつりをひまわりまつりに名称変更とひまわりの里を定着させる。
役場退職後、北竜町議会議員を三期11年間就任、令和年4月より令和5年3月まで北竜町ひまわり観光協会会長に就任。
ひまわりが、広々とした大地に一斉に咲き競う様子を眺めていると体の奥から力が湧いてくる。それは町全体が活気づき太陽と一緒に熱く燃える時でもある。
昭和55年農協婦人部が環境美化の一環としてひまわり 1戸1アール運動起こしたことに端を発する400戸を超える全農家が一致して動き出したのである。
以来夏になると太陽に向かって精一杯開花し輝き続けるひまわりは、様々なドラマを生んだ。
昭和63年史上記録にない豪雨に見まわれた、もう我が町からひまわりの灯が消えるかと思ったが翌年若者が立ち上がり、ひまわりの里が誕生した。皮肉にも次の年、鳥害に遭遇し5万本の苗をハウスで促成栽培し、町民が一本一本手植えを始めた。それを見た中学生全員が手伝い、これが縁で中学校では世界のひまわりの管理と観光ガイドが始まる。草取りなど様々な分野で世話をするお年寄り、・・・その蕾は、どんどん膨らんで町全体に広がりひとつになった、それは、子どもからお年寄りまで世代を超えたコミュニケーションの場となる。
ひまわりの花は、町民一人ひとりの心の中に咲いていた。町を愛する人々が様々な観点で自分たちの住んでいるところを眺めた。
そこで地域の人のアイディアがうまくかみ合い、新しい発想が生まれいい風土が誕生した、町民みんなでなしえた所産である。観光のない町に灯された火を消すまいと、こだわりを持ったみんなの熱い思いが町の活性化につながった。
ひまわりの里が有名になった秘訣は、
① 民間からの運動であった、最初の出発点が農家のお母さんであったことで町も農協も真剣に支えなければならない環境ができた
② 時代の好機を捉えた事、当時一村一品運動のブームの中で、本町のユニークな取組が話題となりテレビ等マスコミが大きく取り上げた
③ 何よりも人の為、町の為に汗を流せる人が多くいた事
④ ひまわりは、雨風に弱く、連作障害を引き起こし、毎年F1の種を植えなければ綺麗な花が咲かないだけに費用も掛かる、他の町や個人が簡単に追従できない、欠点を克服するプラス思考が北竜町のひまわりの里を支えた。もちろん行政の協力な支えと各団体組織の協力により成し得た偉業である
北竜町は、町民皆で成し遂げた観光ではあるが、今後はローカルでの発想では限界に来ている。町内外の英知を結集しひまわりを核としたまちづくり観光を目指し、都市と農村の交流を深めグリーン・ツーリズムの展開等で農業者・商業者に潤いをもたらし、「太陽を味方にした町」として一層の輝きを増すことを願いたい。