合同自分史(北竜町文化連盟文集 第九集・2013年)

本文集の掲載につきましては、著者及び北竜町文化連盟(山岸正俊 会長)から、複製・公開の許諾をいただいております。北竜町民の魂を後世に残せるよう、北竜町ポータルがお手伝いできますことに心より感謝いたします(2014年2月)。




合同自分史・第九集(2013年)表紙
合同自分史・第九集(2013年)奥付
(発行:平成25年12月)

                                       目次


発刊にあたって ………………………………………北竜町文化連盟会長 山岸正俊
 1. 後藤三男八翁の教え………………………………………………………  黄倉良二
 2. 後藤三男八翁の横顔………………………………………………………  黄倉良二
 3. 自分史………………………………………………………………………  木村和雄
 4. 我が人生波乱万丈でも悔いなし…………………………………………… 佐光勉
 5. 羆を追って…………………………………………………………………… 篠原常夫
 6. 四季春を詠む………………………………………………………………… 杉本隆文
 7. 中学校を卒業するまで……………………………………………………… 田中盛亮
 8. 田中昭三とスポーツ………………………………………………………… 田中盛亮
 9. 警察署に初電話親切対応に感謝…………………………………………   中村幸子
10. 普通なことに感謝…………………………………………………………  中村幸子
11. お楽しみ会…………………………………………………………………  中村幸子
12. ……………………………………………………………………………  宮脇龍
13. 秋の田………………………………………………………………………  宮脇龍
14. 俳句二十句………………………………………………………………… 山本玲子
15. 続・友人への手紙………………………………………………………… 米田穣
16. 自然の中に生かされた小さな小さな人生……………………………… 吉本一夫


発刊にあたって
    北竜町文化連盟会長 山岸正俊 氏


北竜町文化連盟会長 山岸正俊 氏  「合同自分史」第九集をここに発刊する事ができました。
 「合同自分史」が誕生してから二十一年目、第八集を発刊してから十一年目を迎えます。遅々として進まなかった事は、ご寄稿を戴きました執筆者には内容にニュース性を持つ物もあり、遅れたことに心からお詫びを申し上げます。

 昨年、我が町は百二十年の節目を迎え、原始林を切り開き近代化された産業基盤、生活環境に浸っている現状において、これらは先人達のご苦労の足跡上にあるものであり心から感謝を抱くところであります。

 また、東日本大震災が復興に向かいながら三年目を迎え、現況ではTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が私達の生活にも大きな影響を与えそうであります。

 この様な世の中の動きや生活の中から、あるいは一人一人が生涯を振り返ってみたり、また瞬時の生活を切り取り出してみる。そして書いて記録する。そんな事柄を集めて一冊の本とする。そんなことが「合同自分史」の役割かと思っています。

  この度、多くの方よりご寄稿を戴きました。遠方からは遠軽町、中村幸子氏、さらに町内の皆様に感謝し、本誌の発刊に携わって下さいました吉本一夫氏、松本雄大氏、市場義弘氏、橋本僚太氏に厚くお礼を申し上げ発刊の挨拶と致します。

「自然の中に生かされた小さな小さな人生」吉本一夫

2014/03/30 15:03 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/30 15:04 に更新しました ]

米田穣 氏 改題「自然と街人との歩みと時代への呟き」

 地球の誕生いわゆる自然界からすれば、まして私はこの世に誕生すれど「宇宙の塵埃」にも及ばない仏の世界で云われる「一滴の雫なり」人生の終末には、仏の慈愛を抱擁されつつ、滴となり大地に奇異する身となる定めぞ。
 人生は、自然のうつろいを楽しむ機会に勤しむと和む
・・・愛でれば心豊かさへ・・・・我が人生の小さな小さな歩みを。

生い立ちと地域性

 吉本家は祖父方の清蔵と祖母いとゑは富山県より、留萌群三泊村字小平藁原野12線南12番地にて出生した後祖父母は沼田村ポンニタシベツ(現在の更新第2)、を新天地とし、「開墾の鍬」を入れ、壮絶な苦労の乗り越えながら3男4女の子宝に恵まれ、次男の父一郎と母花代は縁あって昭和16年11月27日再婚し、2男6女に恵まれる。

 私は、吉本家の8人兄弟の長男として昭和18年「生を受ける」。
 その地は、沼田村ポンニチシベツ(現在の更新第2)、今想い返すと、自然に満ち溢ちた最高の住環境の中で育ち健康維持が此処に、当時は開成小学校が在った準農村集落、毎年大変なことは河川が2本村に沿って流れていた

 春先の融雪期には毎年の様に、山手の河川が氾濫し、雪上に湧き出すように川上から順に溢れる、部落会長指示にて、部落総出での排水路堀が地形を熟知する長老が号令し、一斉に始まる、見事に湧水が排水路に流れ込む有様は、見事でした、家畜の避難、部落民への炊き出しどれをとっても見事に統率されていて被害も最小限に止められたのも、何か事が発生すると、我がことのように家族挙ってシャベルを片手に並んで、数本を一斉に排水路堀りに汗する見るみる内に、排水されるので住宅は何とか床下浸水で済んでいたが浸水すれば途方もない被害が。

 病人抱えの家の援農、冬夏期間の暖房・燃料は、営林署からの山林の払い下げを受け、毎年春先に道無き現場までの沢や、河川に木で仮橋を渡すのも男性こぞっての大作業なども難なく果たしてしまう総合力は、今省みても天晴れ地域力が発揮され、そんな地域の助け合い、暖かい文化は知らず知らずにいろいろ学ばせて頂いた!!

 春先に待ちに待つ海の幸の代表といえば「春ニシン」増毛山が雨模様的な空の下で大量にニシンが上がるとも聞いた、やはりそうで、取り纏めが来る、そうして国鉄の貨車で40×50×15の木箱に溢れんばかりニシンを個々にて馬橇を仕立てて石狩沼田駅まで取りに行き、自宅で家族で料理、脂がのった、大振りの数の子が入ったものばかりこれを、七輪で焼くのだが、あまりの脂で直ぐ火がついて上手に焼けないことも、当時のニシンはとにかく美味しかった事だけは鮮明な想いが、現在のニシンには脂が少なく身が小骨から取れずパサパサ感で余り美味しいとは!!

 こうして少年時代の回想をしていると相馬層の如く脳裏に、楽しく必死に過ごして昆虫やユグイなどを友と網で取った中でも秋トンボ取りは、道具作りから始まる山にて長いタケを探し、その先に針金を円錐に蜘蛛の巣をソーッと写す。

 我が住む村は、森が深く自然満にち溢れるし穏やかな村、今では想像がつかない程の素晴らしい源風景の中で、川辺遊び、山の幸(山葡萄・コクワ・クリ・クルミ・コクワ・イガクリ・野イチゴ・バライチゴ等の果実)は豊富で採取し食し遊んだ、各家には、スモモ・グミ・グスベリ・カリンズは敷地や太い畦に、川の土手に植えてあり甘酸っぱい実を口にした、今で言う、おやつであったあの味がやけに懐かしくほのぼのと蘇ってくるのです。

 こうしたことは、今で言う「至福」を楽しんだ贅沢そのもの又、河川では淡水魚(ユグイ)や、ヤマベ釣り,春から秋までの間の楽しみでした、この用具は自分仕立ての竿は山から熊笹を選び抜き、テングスは買えないので母の裁縫箱から木綿白糸を数本よりあわせ、鉛には大きめの釘を金槌で丸めて使用、針のみ購入これで準備万端、餌は堆肥場のミミズを使ったり、トンボ・川虫・青虫・イタドリ虫等で一日中無心に釣りの醍醐味を楽しんだ遠いあの頃を思い返すにつれその光景がありありと・・・楽しいはずです水は澄み群れで泳いでいる魚を眺めるのもまた楽しい一時で時を忘れるほど興じていまう、後に竿一式を父に買ってもらったがあまりの嬉しさにその夜は寝れないほど興奮、この竿をでどれ程を釣ったのだろうか!!

 皆と川遊びは丸太の廃物利用しての筏作り、自転車遊び、遊びは総て自分たちで作り上げて帰りを忘れるくらい、無邪気に力一杯誰にも縛られること無く満喫するので夏は「真っ黒に日焼け」をしていたことを今思えば贅沢な環境下で日暮しをしていたので今の元気な源に成っていたのでしょう、自然と友、、両親先祖にただただ感謝です。

 冬にも懐かしく危ない遊びは仲間で工夫をしてあみ出し、春先の野山の硬雪で、隣り近所の仲間と、「馬橇」を10人位でワイワイ言いつつ上げ、一気に滑る様子は、楽しさ怖さ半々でも大きな歓声、あの楽しさは、思い出すだけでスリリングさが、もう一度味わって見たい物の一つに、小さい頃の遊びから感動や体感したことは、年を経ても息衝いている光景も脳裏に残っています、老いるほどに、あの頃の体得は随所に人生の知恵にとして、今も自分に確りと脳裏に根付き、刻まれていることを、改めて幼いころのこうした、学び事は必要とやらを禁じ得ないのでありました。

 野山等での数々の遊びを工夫して見出すことが勉強も大事だったが、より、「遊び」呆け今堅ろう心体が授かったか四季を通し優先してそれはそれは、誠に贅沢な風情の中で生活をしていたものである。だが一方で、楽しさは危険性との背中合わせでもあったが無茶はた楽しいので、危険極まりない遊びを良く考えたものだ!!

 秋季には、多くのトンボが群れるように澄んだ青空とそよ風のなか赤トンボ・オニヤンマ・クルマトンボ・イトトンボ(モノサシトンボ)と戯れし頃の、のどかな里山での追いかけっこは、今では贅沢すぎる自然がくれた癒しの自然に包まれた優しい遊びがが息衝いていた我が故郷よ!!

 子供の頃は、地域が家族的な中で悪いことをしたなら、誰にでも正しく導くために物申し、打つて「いさめる」があったが、この現代はどうでしょう、私は、教育を他人の精にし、3猿(見ざる・言わざる・聞かざる)人々とのコミニューケーションが貧しい社会形勢、国会を論ずる資格はどう、一国の総理をも虚仮下す、国民国民と進言こそは、巳ずの保身ばばかりに映ってならないが、最高機関がこのあり様では子供の教育を問えるのか、こう感じるのは私だけだろうか、この事のみこのことから見えるは、威厳も税金にも無法化し心もとないし、どこか危うい日本に成りつつあるのでは?

小・中学生の時代

 小生の誕生の地は「ポン川」(ポン=アイヌ語で小さいの意)所在するのどかで、今に想えばあれほど自然豊で包み込む大地は、いろ色育んでくれた最高の故郷で、生を受けた、己はこの上ない、果報者であったと今振り返るも間違なく深い究極溢れる和みの地。

 小学生の頃の、思い出は「硬雪」を上級生と下級生と一緒に鞄を滑り用具にさせる悪がきに変身、皆で一斉に遊んだ、又秋の象徴する「したな」に凍つた赤かい実ををほおばったりたりと想いは、鮮明に過ぎ「玉手箱」が一瞬に開花するからとても不思議である、地域にあった小学校を紐解いて見ると、食糧難と、栄養を考慮した、家畜(牛・ヤギ)を育てて、搾乳した事、中西校長の教育方針でも合ったろう、毎朝授業前に必ず、漢字、平仮名のの書取りが開花するからとても不思議である、地域にあった小学校は、春の入学、卒業式に始まる、数々の想いの中には、学校は、社交の場、コミニュケーションの場で、今で言う元旦祭各家族が,アイデアと愛が詰った、お重にお正月料理が、テイブルに並び、料理品評会的で、そのご馳走を交換しながら、家庭の料理を和気藹々と味わう喜びは、あの時代でなかったのか、現代は、総て購入オードブルなのだ、今は風情に欠け、人情も希薄になりつつある。

 今や、お袋の味は、青色吐息情況にあり、今やコンビの副菜がお袋味と都会の子供対が答えると言う、寂しい実情何故ならよりよい生活を確保優先するがための共稼ぎ生活向上が優先が生んだ、庶民の生活から生まれ生活様式で、購入惣菜が食卓に並ぶ比率が高くなったからであり、爺ちゃん・ばあちゃん両親を囲む家族制度から核家族に移行し、家族愛、人情が希薄になり、味気の無い社会構成と化してしまっている今や北竜人口は、ひところの6千人から今や人口は2100人程に、老人率は38%空知の上位、最早北竜町は、限界集落に陥るところまで来ているのです、国の年金制度も行き詰まり、国債は累計で100兆円国民一人当たり約800万円の借金王国、更に最悪な情況は、電子力発電所事故である、最早、放射能は全国に、海にあっても日に日に汚染水が垂れ流しで広がっている。

 今すぐに原子力発電所を廃棄への国策に転じれども安全が担保されるには、危険情況が今後30年もの長い危険性との狭間に怯えながらの生活を致さなければならないのであり、耐えられますか。現在の原子力政策を脱原発転換即時国策として国民安全安心にハンドルを切り替えねば、日本、いや人類が危機的滅亡を歩むことになり兼ねない。

 アア・・・・こんな常態化を考えるに付け、「愚痴る」のみぞ、遣る瀬無さのみが膨らむ、もうボヤキは止めにしよう。

 無類の川遊びに自然の貴重な生き物と興じた頃にふけようではユグイ釣りの想いは今でも鮮明だ、竿は今のような立派なものはあったが、買えない、テングス、浮き、鉛も買えず買ったのは「釣り針」のみ、竿は山中に自生する青竹を切り出し、釣り糸は、木綿の白糸を寄って、重りはには太目の釘を金槌で打ち曲げて、総て自分の手作り竿で、餌はみみず、青虫、バッタ、岩虫等、あの頃は何時行っても大量に釣れた物で、獲物のユグイは下処理をして乾物にし正月の昆布巻き、煮しめにしてもらいよく食べたものでした。

 秋の取り入れ作業が一段落をすると、時期的に初冬、川遊び最後は、河川の水量が極端に少なくなり、越冬の為に川岸の深みに集まっている、先輩達は心得ていて、魚『ユグイ』住処を的確に見定める、弓矢状の大きな網を場所に1枚2枚と使い分け、魚を追い詰める用具は、細くて長いハサ木を利用して、その先端に稲藁を縄でイワいて先を更に折返しに、これを追棒にして深いところは潜って魚を追うと、小さなものから大きなものでは40~50cmの大物の獲物が捕れるわ捕れる、この追い漁の醍醐味と楽しさを先輩から知らず知らずに受け継いだ男遊びは川遊びを代表していた、皆で協力しながら成果に歓喜しながら、日が暮れのも忘れるほどに興じたあの頃は実に自然あふるるしてゆったりとした清流に、糸を垂れ網漁を仲間と無心に川遊びに、今に風流で喉かで、上等な趣味に興じれたのでは・・・想い変えすも楽しかった。

 俗名「ヤマベ」は、清流に住む代表的な川魚で、早々釣れる魚では無いので、釣れた時の喜びは、一入の感が!!
 河川の流れは澄み切った自然水で、何らの弊害すらない清らかな流れは、清流ならではの生き物がそこには、数多くの水生昆虫・淡水魚・昆虫等は,現代と比較にならないほど、多種性に富んでいた。

 ポンニタシベツ川は、現在は水田も大型化に整備されると共に、河川改修が同時に進行し、直線、且つ護岸されて居て、以前の様に川がくねり、雑木の根元が深く掘れ、そこに魚の良い住処なり、そこを目掛けて糸を垂れると間違無く、大物も良く釣れましたし、8月頃には、川縁の樹木に清らかな水の流れに当然の如くに「ホタル」が舞っていたが、今は見ることが出来ないのは、整備されたが故に自然破壊され又農薬等で犠牲になったことは、実に寂しい、現実で、今はこうしたことで、昔の河川状態を復活させるの改修で魚の住処や、上流へ上がれる魚道の整備がなされる、故郷、自然の風景と生き物たちに優しい事業化も、地域の癒しにも大きな成果として時代を回帰が進んでいるる事は、非常に喜ばしい時代の逆流現象等もあり一部自然が見直される優しい部分が見え隠れいい社会形勢ではないでしょうか、生き物と自然に優しい社会が人の心をも和やかになって行くのでしょうしそう在ってほしいものです。

 現在社会では地域の人とは、生活水準高度化や、遊びの糧地が変貌し、我らと違い川での釣りの太公望を愛でることはないであろう極上な風物詩~川辺の河畔林は川魚、ホタル等の住みかが、水辺の幻想的な「ホタル」恋の乱舞が極自然に見られていたのですが現在は河川改修で失われた・・・心の源風景として偲ばれる。

 又、8月から秋に向け、大空を乱舞するそのありようは、空に舞う昆虫や小鳥などの中で、4枚の羽根を自在に操り数多くの種が、穏やかな風に乗って遊泳の飛行術は、本当に空飛ぶ英雄的で優雅なその舞いは、種によって飛ぶさまは、銀ヤンマーは、中位の大きさ黒銀のコントラストが際立ち沼や田んぼでは、良く目立ち、赤いショウジョトン銀ヤンマー・シオカラトンボ・チョウトンボ・カワトンボ・アキアカネは、夕暮れの涼しげな風に乱舞王はやはりアキアカネ小さいヒメトンボ・羽に1個づつ丸い模様のクルマトンボ・やはりトンボ中の主は、オニヤンマーでしょう、黒と薄黄色幾何学的模様と大きさは正に、優雅で、今日を荒く、縄張り範囲を悲愁するさまは、印象強い。今は自然領域減少と環境変化で、種も数も圧倒的に少なくなり、トンボ等のすみにくい環境は、我らの生活にも影響が出ているのでは。

 飛び様の多彩さは他の昆虫とは異にする優美な空中停止・急発進・急旋回等の技を、現代の空飛ぶ飛行機・戦闘機等の飛行術を研究導入するもまだまだ一部の術がここに来てやっとアメリカから最新鋭く空中停止・垂直離着機のエスプレスが配備され、ステルス性能で、ロッキード・マーチン社製のF35をここ数年で日本安全を最前線である岩国と沖縄になされ、配備計画が発表されましたがトンボの旋回技量に脱帽せなば・・・・。

 中学生になり、6キロの道のりを、集団登校・下校仕手いたが、現代っ子には有り得ぬ雨にも負けず、嵐にも巻けず、子供が仕なければ、徒歩登校を余儀なくせざるを得ない環境言わばそんな時代だったのだ。現代っ子は、親が過保護すぎとも言えよう、まず時代がそうさせた世相とでもあり得たのです。

 ものの無い時代を背景に、姉妹の多い我家では、通勤用の自転車など無く。父用の自転車も取り合い状態を覚えているし、靴といえば、ゴム100%で、汗でぐしょぐしょ状態、急に止まれば、足の親指などが顔お出す始末、怒られながら又新しいゴム靴が、家事手伝いは、家畜の堆肥出しや、夏は畦草を刈り家畜の餌作り、秋の収穫等もの手伝い、稲を夕方より稲運び終わればハサ掛けは、月明かりの下遅くまでやったものです。こんな事で現在の体力の保持に繋がって要ると確信している今日この頃である。

 学校から帰れば、担当の家畜の草刈も良く食べる、クローバー、赤クローバー、オーチャードチモシー等の割合の多い草でないと食べてくれないので畦選び、デントコーン刈、秋にはそうした良い草が少なく山に雪萱等毎日のことで姉達と汗した、寝藁の交換の夏場は臭気で頭が痛くなるほど、冬場は稲藁・乾燥干草を手押半自動カッターで餌作りはとても大事でした。たしか中学2年頃には、父親と一緒に馬でのプラオでの耕起法を、土質や乾燥状態などで違がありましたが、馬操作と同時に力の入れ具合や深さの調節法は左右にプラオを操作、水田は現在のような基盤整備もされておらづ高低差と、小さく湿地水田に難儀し、畦越は馬力を集約して「カセ」から中心のプラオにせ連結さ耕起作業がスムースに進むが、慣れないと、プラオを畦に引っ掻け一番の粘りと強度のあるエンジュ木の「カセ」を数知れぬ破損させ父親はその度に予め準備していた材を、鉈一丁で夜なべをしながら作ってくれていた様が想い返される。

 上手く作業がハカトらず、涙した日々も少なくなかった一人前の作業をクリーア出来るには幾余要年をしたのか。田植えを行うには土を安定させるために1週ほど後に入る、早朝5:00には田植え前の水調整や田植の為の円錐型畦修復を汗をかきかき黙々と、父が手直し、身長140cm程で体力は無く、耕起、荒がき、代かき作業を幾度教わるも形押し、苗を畦までののおかげ運搬と仕事の切れ間などない状態、必死こいて何とかこなしたものです、これも姉達の応援遭ってのものだねでした、田植えは総て手植え、冷え込みの強い時は太目の畦で、藁を燃して暖を取り取り田植えが終われば、次に除草機『2条』押しこれが終われば、腰痛く辛い田の草取り、泥おい虫駆除、水田の管理手鎌畦草刈を2回、イモチ病の手動粉霧機での駆除、仕事は次から次から追い掛けてくる、赤トンボが舞うと収穫期の諸準備に入る、ハサ作り、どれとして軽い仕事などなく下部と最上部をハサ木を運んでもらい縄で縛り更に店頭防止のハサ木を1軒づつに双方にハサ木を添える稲刈りが近くなると、8段に縄を張り空間を均等になるよう半間ごとに確りとハサ木に互い違いに縄を回して止めてゆく、これまた縄屑で、汗で痒くなったり、はしかくてしんどい作業でした。

 中学時代(昭和32年頃)は、稲刈り鎌で1株1株手刈り6~8株を互い違いに置き、藁でくるくると回し込み束ねると乾燥の為に広げ、2束を一部かさね、天候が良ければその日に家族総出のハサ木下まで人馬一体で稲束を寄せ、月明かりの下で1間の10段のハサ懸けに、おやつはもっぱらジャガイモとサツマイモの蒸しいも、スイカ・トウキビがご馳走でした。

 半月程にて、ハサ下しは納屋までは馬橇運搬にて、夜に取入れ稲を全量を夜なべでの脱穀作業、延べ10日程で終えると、いよいよ冥利に尽きる、籾摺り作業日のみは、特段甘いものなど口に出来ないが、秋の果物ブドウ・柿・梨それに加えて、生菓子が食べ放題、そうして籾倉を行ったり着たり後何俵の予想しながらの休憩の光景は、家族して納屋での籾摺り作業中の雰囲気は満面な微笑であるれ返る様子が、そうまそうの如くに浮かび上がって止まない、とても懐かしく想えるのです。

高校時代

 自分たちの時代は、長男が家業を継承が極自然的に世襲となっていて、父はこれからの将来に合って、高校入学必修だといい聞かされ、真逆の展開で道立沼田定時制高校入学を決した経緯が、先見豊かな父に脱帽しきり。

 今時、家業を真剣に手伝いをしながら、勉学に勤しむなは、語り草だろう、冬期間を除く5月から10月は、疲れから来る眠気が襲う、良く先生からのチヨークの的とされ、先生もお前たちの将来を想いあえて頑張れの声援かと今に。

 通学は、夏期は自転車、冬期間は、10K越えであり、姉らと市外で間借りを仕て、4年間を勤め上げた、楽しかった。我らの農業事情は今で言う実に、嘆かわしい時代の中で、当然と高校2年生(昭和37年)まで、水田耕起は「馬」を操って、小さな高低差の大きい水田を「プラオ」で耕した想像を絶する厳しい時代に生きた青春後継者でした。

 学生時の春休みを要して確か営林署のリツ木調査同期先輩との4人でアルバイト先は、幌加内町と沼田町の県境に位置する通称「ボウズ山」標高も定かでないが7~800m程ではなかったか、この山は鷹泊水力(エコ)発電所の水源所であるでの調査雪深く難儀しかし蝦夷松の枝葉を利用し一気に下山したあのスリルは実に快感であった。

 高校時代は、夢と思春期の多き学園生活、この時期避けて語れぬ恋花、老いてもなお、今も忘れえぬお方を秘め童心にタイムスリップも数年後とのクラス会では、3大話題から、恋花・政治・家族・新たに老後して天命へと自然発生的に、この期に至りてはボランティア、同期との語らいは楽しく、会食は途轍もない元気の源であり、次期への活力アップにも、他愛も無い話に皆の話は尽きなく弾む、ふと窓に目を映すと、白々と夜明けの時間に、この間十代と現実とが交錯した楽しい時が止まって欲しいが、この「力」泉の如くに年を忘れる、超越エネルギー、かけがいの無いクラス会人生の一コマを綴れる残り回数は、もう毎年開催の時期に、クラスメイトの語らいは後幾たびぞ。

青年時代と農業後継者として

 父の意思であった家業を、継いだが経営面積も少なく、悪条件農業環境下で、水田規模拡大の出来ない、人馬農業経営時代の中、母と将来像も描けない、姉妹達を嫁がせ農業に目処を進言すれど良い返事は返ってこない、母は、父の遺言を継承したく、自分を諦めて、末っ子の弟に委ねるに至った。

 私は、これを期にサラリーマンに自分の人生へのシフトを行った。沼田町炭鉱企業3社の中の明治鉱業所に就職るに至ったものの3年間にて、閉山の負目に合い、東京の本社行きの内申を頂き、母と将来の希望を託したが、近間での再就職を模索した結果昭和47年7月道北ヤンマー農機(株)北竜営業所に配属、この時代農業の基盤整備等で水田の規模拡大等に移行期であり、農業機械化時代でもありハーベスター、コンバイン、遊せい式刈払機等の高額農機の走りで好景気の最中にあり、町内の農業経営者に、大きなご支援を賜ったことが脳裏に刻まれています。

 水田は、2,5ha、高低差があり、当時は馬も農機の入れない小さな圃場が主で、200枚程、湿地水田で悪戦苦闘の作業に涙した日も、現在本家は20ha大型農機作業効率を上げる基盤整備がなされ20枚の大型美田圃場化がなされ、我らの若き農業事情は単なる語り愚さに過ぎないの時代へと大きな変貌を遂げている。

 から、秋の収穫作業は人手労働が主役、田植えから草取り、畦草刈、防除、秋には乾燥させるハサギ作り、刈入れ、ハサ下まで稲束寄せ、月明かりでのはさかけ、20日程乾燥させ、ハサ下し、馬橇で納屋まで運搬、稲束を徹夜での脱穀、いよいよ一年間の苦労が報われる、籾摺り作業は品種ごとに反収が幾らになるか予め予測、籾倉を何度も往復し上回を望みが叶えば、市外にて果物、生菓子等に舌づつみ、しかし冷害年は、悲惨で重苦しく辛い作業となった。

 自然界の動植物は、都合重視の社会経済を成しえる為の手段を選ばぬ乱開発に稀少種は今や絶滅危惧種は計り知れず、永遠に復活はあり得ない、人間の限りない欲望と横暴は慎むべきなのに自然界と上手く共存をしないと!!

 平成24年は、世界的にも自然災害が、超異常の常態化集中域被害が甚大化、集中豪雨・台風・地震・潮位が社会生活奪う。何故、スーパー台風(風速70M以上)=ハリケーンに匹敵で、近未来日本列島を直撃するだろうと言れる、現在国交省スーパーコンピューター予測では、その大きな要因は、世界的な海水温の上昇(温暖化)によるので今、海水が2度も上昇していることで、太平洋の赤道付近で温帯低気圧化の台風の発生し、巨大台風に変貌日本列島を直撃緯度も、西日本からと北東の関東(東京)地域に移動し、大都会に上陸、暴風に加え潮位が最大5Mまた津波被害に匹敵の豪雨で大都会での防災シュミレーションによると、1~5Mもの濁流に脅かされるそうだが?

 都会は、ゼロメートル地域に加え埋め立て地の工業と生活で密集、高度化、危険地域の代表では、近未来の安住地域は、海抜の高い地域と、地下の活断層無い地域に限る・・・効した観点から見ると、地震想定が極度に安全性重視からは程遠い実態「北竜は安全地帯」国家は首都移転地に、企業も分散化で本道が主力地に、食糧・漁業生産基地へと、本道は優れた未来型の将に総合性でも安定地域に違いなく、緑地あふるるエコ地域の進化が発揮されるべく日本の屋台骨に相応しい理想的な未来都市に発展するに違いないしやがて北竜町もその一端を担う街へ変貌あれ。

 この小さい地域あった学校は、社交場で、町内会の主た行事は開成小学校で、校長先生を含め3名、地域の伝統的な運動会、青年団の芸能発表など等、特に元旦祭は、この頃『昭和39年』には戸数が35軒子供からお爺ちゃんお婆ちゃんまでがが挙って、各婆ちゃんまでが挙って集い、家庭自慢のお正月料理『3段~5段重ね)重箱を持ち寄り互いに頂き合いながら、大人は花札・卓球・わい談・百人首等に興じ、飲めや歌へで暮れども延々と祝宴はまさに人生での家族的体験は貴重な宝。

 夏の田植え終了後の町内挙っての大運動会は出店があり当時はご馳走を持ち寄り、お酒を飲み交わし、子供たちはこの日を何より楽しみにしたのは、普段食せないバナナ・夏みかん・お菓子・おもちゃ等を与えてもらえる唯一の日実に楽しくハシャギ、満足仕切りのハッピーな一日となり、遊び疲れで夕食後はバタン休でありました。

 秋の水稲の収穫後には恒例イベント(芸能発表会)は、更新2・3の青年団による舞踊・演劇・歌謡曲両地の学校で開催され、当時の和音響『楽団』を率いておられた大正館のご主人、今わ亡き有馬さんを初め6名の構成しておられ連日盛り上げて頂いた、特に歌謡の部になると楽団の演奏にお酒の酔いも手伝って、飛び入りの部にはのど自慢が花を添え会場のボルテージが上がりお捻りも飛びそれはそれは大盛況に、毎晩の苦しい農作業後に行う練習の苦労甲斐が在りこのご支援で一瞬で楽しみや感動隣、終了後の反省会の弾け様は、もう半端ではない、何故なら心温まるおひねりでも大歓喜し、宴は朝まで延々と、今振り返っても盛況さは、若さだろうナーと、漲るエネルギー無謀とも言えるほど、青春のど真ん中での地域の青年団が創造した文化の演芸会は脈々と継承されいった。


 四季折々の自然に抱かれて何気なく過ごし、逆上ること60年時代は宝の自然に溢れていた清らかで豊かな田園風景は特に懐かしい。

フランクな恋

 開成小学校時代でした、とても素敵で優しい先生に寄せた、恋の芽生えに、ここではあえて名乗り佐々木先生でした、学校帰りに誰にも会わぬようにお忍び的に先生を待つ時もキット胸の高鳴りがあったのかと、先生の勤務の共に、先生の住宅へ、住宅には先生らしい難しい本が沢山本棚にきちっと並べてあったこと、勉強机には電気スタンド、インクビンにペン、これだけにも憧れたものです、優しく綺麗でおやつも沢山出してくれました、本音はこれが目宛名と頃もあったのだろう、母に今日も先生の家へ行ってご馳走になったょすると母は次の日に野菜などを先生届けなさいと重かったがぶらぶら下げながら先生宅へ到着後直lぐに沢山有難うと、頭をなぜてもらうのも嬉しかった。こんな素敵な先生は、確か2年間で転任し、小さい心がとても寂しく痛んだことがありました。

 中学生になり、雪の日も雨の日も4キロの砂利道と雪道を歩いて3年間共成中学校に通学したのだが、ここでは先生に想いを寄せるのみで、すれ違うだけで顔め赤らめての清らかとか、純粋さが生んだ切ない切ない3年間でした。

 高校時代『沼田定時制高校』、 後継者を目指し入学、家業の農業を手伝いながらの勉学に勤しんだが、夏場には作業の疲れもあり最初は多少の緊張感で先生の話も聞いているが、テレビ番組のトムとジュリーの様に、瞼に爪楊枝入れても折れるほどに睡魔に襲われいると直に先生のチョークがビューと音を立て飛んでくる、先生も去る事無く学友との居眠りを頻繁に繰り返していたこtで、先生のチョーク投げコントロールも日々に腕を挙げ、我らの後前の命中率が上がっていた。高校は定時制と全日制課程が在り、海浜学校で一緒に留萌での一泊での浦臼海岸での恋同級生の恋狩り名人の同期の手助けを借りて、夕刻の防波堤内にてボートを利用したそれはそれはロマンチックで今も幻美女との胸の高鳴りで・・・何故.何故に、おぼこな僕はただただ胸の高まりに翻弄され超貴重な時間を「貴方だとしても好きですと言えず」の大失態の初恋に破れたあの海浜学校の「今も今も想うと熱くなります」おぼこがこの淡い失態があっての、現在の家内との幸福すぎる人生なのです。

 若さゆえの素敵な想いは、近いであろう冥土で偲び耽るも決して忘れ得ぬ・・秘密として抱いて仏世の世界で、のんびり回顧夜話とし温めておくのもよかろうと。

沼田町更新集落の開成小学生5年生での男の子として「恋の芽生え」、純真な想いでからか、優しく思想的な女性らしい先生はとても綺麗、身のこなしにや部屋氏は勉強机大きな本棚にはいろいろジャンルの本が、整然と並び毎日、まいにち毎に愛読仕ていあたの後姿や、先生の勤務後に行くも笑顔で何時も快くして頂いた幼子時の2年間、しかし3年目の春に突然転勤をすることになったと先生から、とても寂しく心を痛めたことも鮮明にインプットされ想いおこすごとに、老いた日々にあってもほのぼの心に噎んでいます。

 この以降のお話は、奥深く心に抱いて永遠の想いとし抱いて逝かねばならぬのだと。
※私にとって、健康。元気は培われたけれど、小学校と中学校時代を通じて、勉学に目覚ることが劣ったことにその後の人生に多いにその汚点に喘いだことは否めない・・・しかし老いては素敵な方々とのめぐり会の機会にみたされ、大いに終盤の人生を精一杯大賀し、充実した日々を元気で、この先・・・我が人生のエンディングはグットのみぞ。

ボランティア活動は人生の極致へと誘われて

 「モノづくりの素晴らしさとは」昭和63年「龍トピア」会の発案者でも合った、佐光氏の誘いで、町内の「輝かすべく桃源郷」を目指しての会員での町おこしに熱い議論の花が咲き、北竜町開基100年式典に合せ、全国の龍の町のサミットに合わせるべく、かくして平成3年7月街の偉人会(ryuutopia)に自分を初め町内異業種よりモノづくり会員を募りいよいよ、町おこしの青龍づくりへ、しかし、製作場所と致したひまわり青年会館には、何の機材や用具も無い中でのスタートするも人材会員不足の中、会員の奥様形の協力を仰ぐことが出来たが、製作拠点には会員であった辻氏の北竜自動車センターさんを無謀とも言えよう工場使用を厚顔するが、快く提供くださり製作体制が、万全となった。

 また、龍・山車づくりの製作資金の捻出に執行部と共に妙案となる方法が導き出したアイデァが・・・全世帯に寄付を募るに至り、寄付を賜った方々の名前を記入することに賛同を得て大変多くの制作費が寄せら、話題となり地方新聞にも取上げられ、会員スタッフに大いなる製作意欲に弾みが・・・いよいよ取り掛かるが見本なし、技量なし製作責任者はこれを早急に補う為に手分けをし、国内、道内での「龍」の先進地視察の傍ら手探りしつつ悪戦苦闘の連日に明け暮れ、時には徹夜の連続の中、少しづつ形に成ってくると町民、関係者が現場に立寄って頂き、激励や差し入れが、それぞれの会員の業務を圧し、休日返上に加え、皆が目標に一丸となり体に鞭打ち製作に奔走、家族の皆さん方にも大きな賛同を得ての手始めに、町おこし為には3頭の龍、更には北竜町の開基100年と全国の「龍サミット」に向け、前代未踏の挑戦が、まず今わ亡き道内屈指の仏閣棟梁の中村さんが舟形の製作、我らが龍を担当する「龍」はこの舟形との合体手法から棟梁との歩み寄りの限界点が大きな問題を一時表面化すれど無事解決し、具体的な龍と船形の姿が定まり、高さ5.2m・全長8,5mもある山車製作に明け暮れメンバーの疲労は頂点に達し、リーダーの辻氏は点滴治療を受けながら、関係者から製作一端中止が成されたが、面々がこれでは、サミット完成への黄信号が苦慮の末、是が非でもと立ち上り、全国ドラゴンサミット前日悲願の平成3年7月24日山車(北竜丸)が、スタッフの重い苦労の結晶で、眩い雄姿を12市町村サミットにお披露目が叶い、歓喜に咽んだのが、昨日の如く思いが。

 この製作裏話には、知恵と工夫を汗するには、お酒の力と桃色話や、また激論をも交えつつ、徹夜の作業にも負けず、山車の形が徐々に、顕わに、こうした製作段階で一番思いを込めたのが、「龍眼」小樽の北一ガラスに発注を眼球には、電球を埋め込む特注等で、メンバーと何度行ったろう・・・・・?、北一ガラスの職人さんも、さすが匠み人目の前で、完成品を、これまた、匠技を極めるまで黙々と一級品を、造り上げて下さった・・・お値段は・・・確か30万円であったが決して、皆の想いと・魂が篭っているし、高い龍眼ではない、今でも「町民の健康や街の安泰を成就」見守る縁起山車として現在にあっても北竜町主たる行事に存在感を誇っています。

 白龍と青龍での素晴らしい最高の想いは、NHK主催の「北海道ニューフロンティア・フェスティバル」市町村対抗ふる里自慢出場で、北竜「町花」を全国に知らしめるべく、ことらも、仕事の合間で、小道具作りに、連日連夜での徹夜作業を押して、スタッフ面々は、体を張って作り上げたし、歌自慢者、寸劇の脚本、演技者、舞台づくり人と最終リハーサルには、小道具の突発的なトラブル、出演者とのタイミング合わせ、難儀に難儀を重ねての、空知代表に3年連続の快挙へ、全道大会では、我が北竜チームは連続で優秀賞・特別賞を受賞、素晴らしいスタッフにも恵まれて人生「初もの」作りの果ての達成感は、熱い感動に咽んだ。現在に至れど、あのエネルギーと情熱は「永遠の宝」と成って今も皆さんと語りあえる友にも支えらながら、とても素敵な人生を大賀無く過ごさせて頂いている。

 近年は、3頭の龍の出番は殆んど無くなっている、一方山車は辛うじて、ひまわりの里とJA北竜支所のメロン祭りと北空知最後となる北竜盆踊り会場、して中学生を送る会での展示と記念撮影で、寄贈、記念の紅白餅の提供等等老いて出番が少なないが地域と自分への活性にと。学生数の減少する現状に、心が怯み・・・こころ寂しい限りですョ。

 でも、会員は8名程だが、老兵につつ鞭を打ち健康維持と、地域への小さな償いにと・・心ろ弾む音育事業に優一喜びとし、園児・学校・一般を対象に(ハープ・ピアノ・バイオリン)奏者を迎えて地域の皆さんとの交流を通し、贅沢な音楽会に酔い痴れるひとときが元気と明るさして癒し和みを与えてくれています、平和の象徴と言えよう・・継続を心して。

第2・3の船出

 幸せにも北竜町役場勤務への誘いは、人生最大の朗報をもたらして下さった、今は亡き山崎玉吉ご夫妻のお力沿いを賜り、晴れて現在の家内との華燭の典を上げさせて頂き、役場に通算33年の長きに渡り、奉仕者として恙無く奉職をさせて頂きましたことは、これ一重に町民の皆様方と町職員や関係者の深いご理解とご鞭撻があったればこそ平成15年3月を以って33年間の永きの渡り支えられ、退職させて頂きました、衷心より感謝を申上げさせて頂きます。

 退職後には不肖付随の小生に光明たる、碧水生きがいセンター長、更にはサンフラワー北竜温泉支配人嘱託を受け特段なご配意を賜りました事に、我が人生の大いなる「宝」を授かり、北竜温泉・地域コミニューセンターの業務を5年間、大きな経験をさっせて頂き、関係者の暖かいご支援の下での業務にあづかった事は果報者であり、冥利に尽きるを禁じ得ない、この貴重な業務で培った事柄を今後も人生への戒めや謙虚さと感謝心を忘れる事無く日暮をして参りたい。

夢の真さ夢の世界的先進地へ 

 町おこしグループ(竜トピア会)活気と明るさ漲らせる活動で、先進地のヨーロッパ研修一行に参画をさせて頂いた、一端を振り返えって。

 羽田から世界最大の大陸のロシア上空からの赤茶けた大地を眼下に望みつつ、イギリスのヒースロウ空港へ到着に時差ボケで食事も取れない情況に、半日程苦しめられ、一行のメンバーに大いなる迷惑をお掛けしていた。

 フランスでは、世界最高峰は圧巻と感動、名高いルーブル美術館の超一級の文化財「彫刻・名画・遺跡の出土品」その規模に驚き、総てをモーラするには1月を要する膨大な芸術群を前にしたが、一行は残念ながら極ごく一部のみ!


 フランスでは、国策として冬季に農村地区での観光事業化としての酪農家へのホームスティを導入し副業として定着しているとの事で、先進農業国らしく、個々に乳製品の加工施設を整備され独自な生産品を生み出していた中での民宿先では通訳を交えて脳業談義や日本文化や土産にと交流はとても意義深い体験には民族を超えた深い感動と忘れがたい地域に寝ず居た歴史ある先進地での多角脳業経営者との民族的交流は深々と耽るにつれ感銘深く・・・

 イギリスでの歴史感溢れる荘厳なウェスタミン寺院・ドイツの気高いノートルダム教会・スイスとフランス国境に連なる4千M級のシャモニ連峰へはロープウェイで世界の名峰の圧倒的な展望は、まさに天空に立たずみ絶景かな境地に。

 世界の中立国スイスは観光と世界最高の金融国であり、如何なる核兵器侵略を遮断する最新鋭設備を有する地下壕張り巡らせる、世界的侵略被害からも国民の守り、社会保障充実した安全国家には、敬服しも、憧れの国でもある。

 誰一の安全国家だ。スイス・フランス名峰氷河では一日3~5cmもの移動が太古から数万年を経ながら岩石の美に優る造形深い渓谷を刻み生み出す驚異の自然力には、人間力を霞みさせる底知れぬ圧倒的な力が生んだ氷河こそ自然界の無類と言わざるを得ない今もなを脈々と壮大力で永遠に!!氷河の年輪は摂理的だあの堅牢な固体が何世紀に渡り生き物の如く流動した果てでの、先端では途方なく堅牢な氷河は凄まじい力に押し出され崩壊する瞬間に息を呑む光景は・・普遍そのものを実感させられた・・・!!

人生の岐路に・・・されど開腹手術を「愛」で生還には・・・

 私の人生を、とても素晴らしい仲間との出会いの都度、新たな感動を頂いた超果報者といっても過言ではない。

 町の奉仕者として業務での最中の7年目、昭和52年12月仕事を終え帰宅後、田川商店に小鳥の餌を自家用車にて購入後、突然、胸部に不可思議な、重苦しい症状に、咄嗟に自宅には戻れないと、取り合えず北竜段ボール会社まで行ければ何かあっても、何とか着い途端車のドアを開く途端、大量の吐血貧血症状から意識朦朧に至り、何とか意識が戻ったがどれ程の経過かは定かではないが、車で何としてでも自宅まではと休み休み辿り着いた、玄関まで何とかふら付くも、貧血で立と激しい目眩と呼吸困難症状で血の気なし状態、家内は余りの情況に動転の中、高田宅へ電話の指示、高田の父さんが車で参じてくれましたが、取り合えず車で深川市立病院まではと乗るも立つと貧血で酷いめまいと息苦しさに陥り、断念し救急車を要請し、布川病院に緊急入院へ、貧血処置での輸血と止血の注射を日に3本、先生からの説明では、この処置で必ず、胃の止血が可能とのことで、一端は安堵致したが1週間後の暮れの12月26日再び大量の吐血で、急遽深川私立病院にて師走の27日に緊急手術に至った。

 深川市立病院外科筆頭医師の斉藤先生は、早速、私の手術には緊急体制が必要と家族に伝え、AB型輸血の協力要請を申上げ役場職員と農協、改良区の皆様方にAB型血液提供者を募り、バスにて深川私立病院での多くの方らの善意での献血を賜り、4/5の胃の開腹手術も無事成功しましたのも、関係者の深いご厚情を頂いての今日までの「命」を永なえられたことが叶い、只々感謝の言葉しかございません。

 現在は、手術時に術後の痛み緩和措置のチューブを施し術後の激痛は限りなくゼロに近く患者本位の処置法に私の手術時代では、モルヒネ対処は、術後の悪影響防止面から、集中処置室(ICU)での、耐え難い激痛を約12時間程、この間現在のような痛み緩和措置が無い時代でしたので、看護婦さんに自分に痛みを只、一方的に我慢しなさいのみ、そんな中、罵声を浴びさせたに違いない、術後14時間後には激痛も多少の和らぎ、痛みをこらえながらの症状にも拘らず看護婦さんにトイレを指示され開腹部を抑えつつ終え、この後はモルヒネと時間と共に快復した。

 その後順調な快復を見せ1ヶ月入院生活を経て退院予定が決まり、退院前検査で、手術に使用した血液・血清等の影響から、『B型肝炎』を発症しその後快復に約半年の経過を持って、快復し退院が出来るに至り、晴ればれの想いしかし、食事の制限と体力激減のために、少なくとも半年の静養の診断書を提出するも、1週間後には勤務体制に入らざるを得ず、体力低下、肝炎特有の体のけだるさと脱力感で午後よりの勤務にも支障が、何故なら4/5摘出手術と極端な食事制限や、消化の良い、お粥・豆腐・薄塩味噌汁・豆腐・納豆主に1日6回の食事摂取の義務付けが有りましたが、勤務中はそんな我侭は通用しません、耐えるを耐え忍び、1年間は特に苦労が多かとても辛い日々でした。

 食後に腸閉塞症状況下の激痛が時々突発的に生じ病院通いが約6年に及びありさまに、この間、仲間や関係者に多大なご迷惑をお掛けすることに、職場復帰後の新年度に理事者の計らいから深川地区消防消防組合北竜勤務の拝命を受け平成15年33年間の職務に終え退職を迎えることに、感無量の日に家内・家族・関係者のご厚情に一人咽んでいた。

 施術当時は、癌の洗礼を受ければ「イコール死」家族は2~3ヶ月の告知に大パニック、勿論自分も時間の経過と共に、直視しざるを得ない窮地に誰しもが自分には及ばないだろう、しかし我が人生、天命とは言えども、死を向き合なければならぬ宥めが!!身体から何から何まで一気に崩れさり、血の気が引き・・思考力は無、浮遊身体に!

 「嘆き」ぼろぼろに打ちのめされ、一時は精神的・体力的にも観念し静かに「死」を迎えるすべのみ、そう心を括って自分は、今家族に結婚をし、サラリーマン人生での「夢」一軒家を構えこれから、二人の人生の絶頂期矢先に「心が凍りつく宣告」をは何をもって償えるのかについて心の格闘が、明るく装おうとすればするほどに、気負いが出る、こうした繰り返しの日々に精神やつれに、衰弱も、精神面共に極限に耽るは自滅し、結果として家族に辛く重い悲しみを差せてはと、病気に背を向けず毅然と闘い,開き直りを以って克服へ闘志が徐々に、態度、行動にも伴い、笑顔で元気になるため4/5摘出手術に臨めましたのは、姉妹は下より職場・改良区・農協諸氏のAB型の輸血を賜ったお陰をもって大成功、しかし麻酔が覚めずチームに焦りが合った事を、元気に成りお聞きいたしたことですが、カニの様に口から泡を出した情況は急死一生を得た大変危険極まりない術後?ある先生から伺い改めての驚くばかり事実を確認した。生か死かの格闘中冥土への流転話しを、親族から良く聞かされていたし、刷り込みがあった精なのか、総天然色の深い森に大きな川が、手前には綺麗な真黄色の広い広いお花畑が、対岸には迎えの神「先祖」が居た、少しづつ仏様である人が近づ迎え人は、招きの仕草や、呼ぶ声もかすかに聞こえてい感があり、そちらに向かう途中で、家内や身内の必死な呼びかけが優り、生死を彷徨って危うい最中に、家族愛の熱い祈りもあり、神をかえして、私に「生」再びさむけて頂き一方で、仏の天国の先祖からの慈悲が相俟っての、計り知れない光明が意識快復に繋がり、家族愛が私の脳裏に幽かに聞こえ、微妙な体の動きに、一喜一憂し、喜び合っていたさまが、聞こえ初めて、死の世界からの安らぎの世界へ、天国から両親が帰りなさいとの「力」があってこその生還が出来と確信したのです。因みに私の夢は見るもも「身内でのカラー夢見人は僕だけ」、何か両親からの強運かも・・・何時も抱かれ、幸せ一杯の中、歩み続けてます。

 闘病生活の間に、肝炎を発症し食事制限は散々なもので、元気を出しなさいと激励の言葉はとても嬉しいものでしが、食事は肝炎食に、薄味に加え胃は従来の5/1となり、胃の機能はまったく無となり、食べ物は直接、腸へ入たその日の体調などで、食事中や終えてから突如、激痛、が約1時間ほど続く程に、食欲減退、痩せる、気がめいるボロボロ状態に陥ると辛抱も限界に、家内に辛く当たる日が増す、死からの宣告と共に、気の置き所の整理が就かなくなる、辛い辛い日々に負けてしまう、そんな中、人生で日記をしたためる事にした、徐々に気が晴れるのを覚えでは次に何をすべきかを考えた、病院食では元気は出ないのではと、家内に我侭を強いた、私の余命を知っているので、拒否もできづずに、毎日のように何が食べたいと聞いてくれるようになり、寿司から始まり、刺身・果物・飲物の差し入れが退院まで我侭をと通すつれ、血色や食欲も多少戻るにつれ、体重も伴うい、見も心も自爆から少しづつ解放されるのを感じ取れるように安定して自分がそこに居た、さまざまな苦境を皆が支えてくれるに気力がアップへ。

 しかし、調子の悪い日も当然のように両極端な症状として出てくる、この症状をクリーヤーするすべく持ち合わせがないので、気が滅入るの悪循環が始まる、死と背中合わせの闘病生活を送る、遣り切れなさは言葉に言い尽くせないでも、何とか半年を乗り越え目出度くも迎えることが出来、平凡な生活が少しづつ戻ってまいりました。

 が・・・・・その後の人生にも紆余曲折が数々有りました・・・・・!しかし36年後にまたして悲劇 !!

 悪癖脱皮不可、我がまま砲台の人生を歩んで33年目にまたもや、平成21年10月に二度目の胃に「癌再発」洗礼自分の人生もこれまでと、たかを括った、心は揺らぎ弱いもので涙で暗黒を見た感が、何故二度も、何故と嘆いた。

 翌年1月5日に内視鏡手術成功と思いしや、2月下旬再々検査の結果が全摘出手術の告知を受けて、2月に手術へ踏み切った、全敵手術をなされた方々より、その後の経過を伺うが、想像以上に大変であることが、でも家族、身内のことを思うに付け、どうにかせねば、ここで自分の人生での天命を信じるのみと、腹をくくって手術に踏み切った、実に、苦しく切ない入院でしたが、またも、神代から再度命を授けて頂いたのです、何て果報者だろうと、想いの中で日暮をさせてもらっています。67年と胃ガン2回の手術と大きな岐路となる試練を突破でき得た・・・・南無阿弥陀仏気持ちも徐々に前向きに生きてやろうの芽生えを実感するいわば「開き直り」が、病気心を払拭する大きな礎は家族力に寄るところと、前向き思考と楽天的さが、病気にめげてはと開き直りながら、強かに生きてやるに変化させるには体を動かし心の病を克服する一番の精神薬になって、現在もパートや、趣味、ボランティア等で皆さんからも力を頂く「暇」は、命をチジメルと言われています、長寿で時の人となった金さん銀さんの子供さん達は93歳97歳にあっても母親よりからの教えである「自分のことは何でも自分でする」ことを実践し、今でも守り元気そのもの様子が放映されていましたし、更に一般的には趣味を持ち、体が喜ぶことをすることで、見い出し継続することが長寿に繋がるそうです、何事にも「内向き」負であるとも、体をいとまず、奉仕志向にて一生懸命に歩もうと心して行きたいものです。

晩年にこそ綾あり

 退職後の我が人生は、好運にも再任用の歩みが持たらされ、現役時代は元より、また違った意味で、直接町民の方々や、利用者してお客様を癒す異業種の商いの職務に戸惑いもありましたが、多くの皆様方に支えて頂きながら、碧水生きがいセンター・(株)北竜町振興公社(サンフラワーホテル)での4年間の勤務で。多くの人間模様や、業、務を通じて、新たな体得を賜り、人生論にも多少なりとも深みも、喜怒哀楽も肌で感じられる仕事にただただ感謝と更には素敵で多くの感動も頂きました。

 その後にも、街に元気にと、ひまわり夢工場開設運営に参画させて頂き、町内の低農薬野菜の直販店営業に奔走、町内外の皆さんとの交流がとても元気と沢山の恩恵受けて、人生に仕事での楽しさと輝きを、その後は、更に北竜町観光協会からのひまわり観光期間中の自転貸出し業務を3年間にもたださわさせて頂き、特に多い中国や韓国・台湾・して国内の観光客の皆様方と多彩な交流をとおし楽しい仕事にも恵まれましたことに感謝でした。

 私の、69年の人生での意義深く重い任務に就いて仰せを頂いた、平成20年・23年の北竜町議会議員選挙業務・平成24年度の北竜町長選挙・更には衆議議員10区の選挙業務について、立続けての支援にたださわることで叶い上に、その「栄」に関係者と共に人と人々の心に一体となり訴え続けた心労な情況であっても達成を目指すべく真心と笑顔と情熱注ぎ叱咤激励を常にのそ力を慈しんだ支援者『人』の心を打ち当てての、スピリッツ心が通い皆さんと共に「至福の感動」と「大きな絆な心」を頂戴できましたこと我人生の大きな歩みの証しにただただお礼感謝の気持ちのみ。

 自分の生き様の中で、父からの人は真面目と一生懸命が己を何時か能くされることに繋がるを微分の道しるべと。

 自分の人生を育み、刻みこまれた変え難い宝物は?心の宝物を周囲の多くの方々より寄せて頂いた尊い教えも数知れず、思い浮かべつつ心弾ませている・・・・・好い心持に深けていると和みや元気が常(とこ)しえに沸いくる。

 病に陥るも、これらをことごとく、制御し得た肉体と精神や気は、両親からの凄い堅牢なDNAとして今私の体で脈々と生きながら得ている、これに優る両親への感謝は有り得ない、変え難い重いものを賜ったからこそ元気で今も。
 これゆえ、今、北竜の皆様方より途方ない愛と恵みと力を頂いて楽しい人生を一生懸命に歩みを続けてまいりたい。

 人生の終盤に至り、友人が議会議員選挙に立候補し町民に恩返をしたい、人に優しく、活気あふるる、元気な町づくりに情熱を注ぎたい、そうした彼が、選挙の代表を後援会設立までと依頼され、しかし後援会設立に至れど、代表者不在のまま補欠選挙戦に突入と相成り,何ら実績・経験を有せず私に大役を仰せ付かるに居たり、後援会設立に、町の有識者と共に団体、町おこしのメンバー、友人・サークル・親族等に支援者や役員を依頼をしながら、地区ごとに支援依頼を地道に積み重ね、支援者の輪づくり等、何せ初づくめ選挙戦に日々戦戦恐恐の中に合わせ町内会で2人の立候補者を推薦体制へ、只た町民の皆様に真心作戦のお願いに奔走、一期目の補選は、無競争当選二期目は選挙戦一期目と同様、初尽くめで一体となり関係諸氏の熱意と一途な夢を叶えるべくが講じて最良の結果での栄誉に良くさせて頂き、関係者との深い繋がりと支えは我人生に在り得ない感動と、多くの町民の皆様からの心温かい力強いご支援で、ここに見事な当選を成就させて頂いた・・・あの熱い感激は「夢ではと頬を抓った」皆さんへ何としても報いたいと一生懸命頑張って活動に励んでいます彼も。私も真の果報者であります。 

 更には次々と、予期も仕得ない、町長選挙や衆議院選と連続して、ただ触る栄誉に善くさせて頂いたことにただただ感謝一途に、スタッフ一丸となり真心を持って一生懸命に信条を訴えその情熱とチームワークの良さと頑張りが、支援者からの熱い支援の輪が町民に情熱と信条を、このハードルの高さを見事に訴え続け、大変熱い町民の皆様方より支援の輪がもたらされどの選挙にも至福の勝利を得て最高の歓喜と感銘し、共に勝ち得た仲間の皆さんとの絆も強くなり、多くの方々から心を打つ「温情」は忘れることが出来ません、将にハッピーエンドに終始しことは、人と人とのご縁があったればこそ、大変身に余る果報者とさせて頂きました・・・本当に有難うございました。

 これからも宜しくお願い申上げます。北竜の豊かな街で住ながら皆さんと仲良くして楽しく送れば「素敵ないい老い」も又、日本にはパークゴルフ場が沢山あれども、西に暑寒岳を抱き、東に北海道のアルプスと言われる大雪連峰望める北の大地に位置し、ランドスケープ地形に貴方は素晴らしいの花言葉を持つ「太陽の子-ひまわり」110万本一斉に12haの大地を黄色で染め上げられるヒマワリから健康と微笑み力が、ランドスケープ畑に溢れんばかりに咲き誇るベすトマッチング、体一杯に浴しながら楽しめるパークゴルフ場は「ここ北竜のみ」心も体も気持ちも豊かになれ究極で絶好のロケーションに抱かれて楽しむは、正しく癒しのゴルフ場ですョ・・・こんな素敵なコースで毎日毎日ゴルフ贅沢三昧は健康的、ある大会で、さくら1コース(5)で「夢のホールインワン」これは自分にとってゴルフ冥利に尽きた日となり、これも大きな冥土へのお土産に新たな一ページに刻んだが、これからも仲間の皆さんに支えられながら日々楽しみながら、よく生き・よく笑ってクヨクヨせず生活を送っていれば、やがて「よき死と出会う」かも。

 仕える、若かりき頃は、お寺に関われる何て、これっきしも思いは無かったが、今先祖や、現在の壇家の皆様と極く自然にお世話をさせて頂けることに深いご縁を感じながら、正信偈開きつつ、思わず心で「合掌」年齢を実感します。

 道新に道内の川柳に目を走らせていたところ、美葉牛の川上さんの作品に釘付けに、私も家内と日頃良く今一番望む事の一つとしてある日突然迷惑を掛けずしての口癖同様の、読者の声の蘭に川柳作品中に『ピンコロ』題材の作は自分も終末はこれに勝る「これぞ安楽浄土の世界」世間一般的な高齢者は異口同音に願う、生活の中で思いが深い、老いると、自然に生い立ちの風景とか、いそしんだ事柄をとても強烈に回想される一瞬が多くなってきているし、己が、死を選べる社会があってもと・・・・・それは世界でも論じられては居るが、我が国にも「安楽死」を考える協会があので、現実性は未知数、末路での我侭の尊厳死にあってはもっともっと柔軟性社会であればと請い願いたいものョ。

 この想いは、キット人間の罪深い嵯峨なのか、我侭なのでしょうか、今、心の拠り所としてお寺に小さな奉仕をさせて頂き安らぎさと共にイイ老いを重ねつつ静かに終末を迎えるに到りたい合掌回数が日増す昨今へと・・・。

日本が世界に誇るお宝ら話しいろいろ

 宇宙には幾何学的な惑星が存在する中で、雄一生命体が生存でき得るかけがいの無い地球は永遠なのだろうか世界中で地球の破壊が平然と突き進んでいるが、自国の環境保全より経済優先オンリーは世界規模で公害を無秩序に垂れ流し、海洋の浄化の許容範囲を超えつつあるとも、海洋の生き物の危惧種も多いし陸上種も同様な環境に砂漠化し温暖化で自然界の復元力とのバランスにも大きな陰りが忍び寄って居る・・・気づきと気遣いが欲しいもの。

 日本は世界に誇る、現在の日本領土は200海里体積で行くと世界第6位の海洋国家、列島周辺深海底は財宝の山工業製品に欠かせない「レアアース」が100年以上の膨大な資源が海底の土中に埋蔵するそうですし、日本海沖で、中国と韓国・ロシア間との領有権問題は正に「エコ」(ハイドレード)未来資源埋蔵量の豊富さを目論んでいるに他ならないし石油・ガス資源にあってもサウジアラビアを凌ぐ埋蔵量が、世界機構資源調査報告以降に強硬な領土主張が政治が逸早くリードし世界に誇るクリーンエネルギーの国策として早急に開発を優先し、世界に打ってでる絶好の機会TPP参加問題がクローズアップせれているが、自国の食糧の自給率が先進国では39%ほどと低水準、食糧を他国依存は安全安心は世界情勢不安の勃発や地球規模での異常気象があれば餓死に等しい情況に陥るのではないのか、米作は国土保全、環境保全は自然界の循環型保持するなど価値換算は途方もない「力」の農業見くびると滅ぶし農民が汗した美味しいお米を国家保守せねばなるまい・・・農業にもっと「夢と希望」のある政策を打ち出して欲しい自然と環境を雄一保全する農業を蔑(ないがし)ろの農業政策は、国が滅ぶ・・・・国政を掌るお方によこしまが在ってはいけない。

 何故なら、超巨大地震は過去140~150年周期で発生していた、この周期が間近に東海・東南海・南海巨大地震が、もしも発生すれば中枢都市が壊滅的被害から絶対的な食糧餓死者がシュミレーションされている食糧生産で命を守るを農業を国策で保障制度を是が非でも確立せねば滅ぶ、今選挙に大いに論戦し「食論を深め」秘守を願いたい。

 まだまだあるよ、世界を制する水を生み出す、超純水(逆浸透幕装置)一切の不純物がない「海水の真水化」日本が誇る技術力が成し得た、世界の人類を救う技術力だそう。

 世界の食糧危機が、10年後伝世界人口が膨張し「91億人」(日本激減6,000万人)、異常気象・農地減少等で食糧不足で、15~40%物高騰が予測されているのは耕地の争奪線先頭を行くのが好きつけ悪きにつけ中国だそう今後、先進国にしろ、後進国にしろ企業生産活動で廃棄物を増大させ、生活環境、海洋環境の悪化が急激に、既に海洋の酸化が進行し、海洋生物特に魚類にその影響が顕著になっていて、世界的魚ブームで、絶対数の不足の予測もせれている、海も空も危うい現代社会にあって、魚養殖産業は北竜の救世主になる可能性を秘めていることも!

 ここで、クローズアップされているのが、「ミドリムシ(藻)」未来の食糧(栄養価が高い)と燃料生産(光合成)世界を驚異的に変える「夢の食糧と燃料生産・発電能力」地球の環境浄化(二酸化炭素)更に、魚養殖の餌等、世界救世主へと実現されつつあるそう、これまた、日本の研究者の偉業と成るとされている・・・日本未来は明るいのかも!!

政府官僚学者は原子力政策に安全性は不変でありうる、そうコストが割安と、一般国民のへ電気料・戸別に上乗せ当時の政府や企業は国民の見えないところで経済団体に手厚い法と制度を、危険極まりない施設を地方の財政貧弱地を選定し国民から徴収した資金力に物言わせ、永久的に交付金制度を推進、全国的に展開したが、3・11電子力事故が勃発、推進政党は安全性は不滅であると安全管理体制を蔑ろ、その体制の対応を論じる資格などないし選挙で、「日本をとり戻す」などとスローガンを国民に打って出れるは不思議でならない、極論だが幣制国家にも足らわぬ。

原子力発電所事故での行方不明者も含め約13,000名放射能の影響・津波で財産の失った方々、職場をなくした方々や住居、土地を無くし地域追われた方々、一番の悲劇は犠牲に成った方々や肉親の方々の悲痛な現状を省みずもなしに言いたい・・・犠牲になった人々の声なき声を後世にと、「原発ゼロ政策」がスローガン合ったはずだが?

 政治手法は何だか、小鳥のカッコウの子育て法「かく卵」にとても良く似ている様な感がする(他の小鳥の巣の卵を排除し産卵し任せる)日本にもあるある未来型資源「白いハイドレード」も埋蔵は100年以上、世界を圧巻させる、公害に無縁の地下資源化と世界に誇る漁業養殖と平行し、最先端技術力から生まれた安全な淡水地下水利用で「夢の陸上養殖化事業」が国内でも既に企業化が進んでいる等、確固たる世紀の革新的技術を有している、海洋と淡水魚が大型水槽での夢のある陸中養殖生産を高め海洋安全が担保されなていないからこそ、日本海域の深海資源は世界が羨むまさに、現実は資源立国に熨し上がった、今こそ毅然と逸早く世界に打って出て欲しい。

 もう一言付け加えると、、いい自然界の資源とか・世界に誇るべきであろう特許技術が未だ日の目を視ずに埋もれて閉まっているそうだが、国策として多くの宝の山を見出し活用すれば、1,100兆円の国債に20兆円もの上塗りなどせずとも、格差社会に発車を欠ける無意味な手法に頼らず基本理念を遵守していれば豊になれるではないのか!

 必ずや日本は世界最先端テクノロジーを駆使すれば、エコロジーでも世界をリードする経済立国が蘇る。

世界NO1の「メタンハイドレード」

 世界の原子力発電の安全・低コス神話の「是是非を答う」平成23年3月11日世界中を震撼させた、東日本大震災で、地震・津波のダブル被害は想像を逸するは天邪鬼人間界への、「天からのご意向」ではなかったのか!!
 世界の原子力政策の安全神話は脆くも政治の具した災いが露呈されることに、摘み深い策略は企業利益誘導だ電力使用企業の負担率は何と1割、国民負担が9割を政府が開示をすれど経財同友会がこの政界、報道、評論家総てが一斉に口封を、民主主義も合ったものじゃない国民負担を放置したまま閉じ蓋をして平然と闇へ、愚弄するにも程があるこんな暴挙は国家と企業が結託した証し、情報統制で素早く封じ込めは日本が滅びに繋がる悪行に尽きる、許しがたい事態が見えた。

 自然界に優しい列島深海大陸棚周辺に資源「メタンハイドレード」世界も注視する、日本国内最高の夢エコ資源活用を提唱する学者の成果に、国家開発プロジェクト(MH21が本格始動)が、始動し2007年開発開始し海底埋蔵量も無尽蔵的とも言われている、メタンガス抽出ボーリングを世界に先駆けての大成功、世界NO1の世界最先端資源化に国策として「人と未来に優しいクリーンエネルギー」夢の白い氷と称されるメタンハイドレードを実用化し二酸化炭素を排出しない地球と人に優しいクリーン発電にシフトして、お宝資源は推定埋蔵量が100年以上、国民が安全安心のエコ燃料でエコと安全性と安心感を一刻も早く実用化に転じて、齎して欲しいものです。

世界を制する「水技術」

 世界をリードする「超純水」
 日本が誇るのスゴ技は、「2007世界では6人に1人がまともに水を飲めず死に至る現状」日本力を誇る「超純水」逆浸透膜装置は、一切の不純物が無い水)海水の真水化が最たる技術力近い未来、21世紀には「水」産業立国に成り得るに違いない、世界制覇も夢にせず、世界の人々を救う、救世主になと「日本国は永遠」だ誇れ・頑張れ。

 だが、日本の水道水の「濾過滅菌」は、今や先進国で、戦争兵器としていた「塩素」を行っている国は、我が日本国のみ、技術立国としては、嘆かわしい水行政である、健康のため、体に優しい、美味し安全飲料水を普通に提供すためには、自然は清らかな水を生みだしてくれる、世界に誇る民間技術を活用と合わせ、水資源を守る自然環境を確りと保全し、一刻も早く人畜無害で、美味しい水が、蛇口を捻ると、世界の飢える人が飲める社会に期待をしたい。

 人類を救う「水王国」になるそうです・・・いやはや頼もしい日本国へ「大いなる進化」を望みたい。

「好適環境水養殖」町が蘇る

 北竜町は内陸に位置する大変豊か自然と農産物の宝庫に胡坐では輝きを失する何か一つ輝く忍術事業を起業し「海ある街・観光客夢を売り・夢の海水魚を食せる町へ変革を」などと唱えれば奇想天外とどころか病に冒されたかと裏ら口が飛んできそうであるが、桃山話として受け止めて欲しいものであります・・・本音・・・・・・今ひまわり観光はご多分に漏れずマンネリ化を歩んでいる,今目覚めて然るべきでは,そこでこんなロマン的は話だけでなく実現しては・・・どうだろう。

 世界の海は今や、酸性化しつつあり、海が病んでいるそうだ、今 日本和食が世界文化遺産登録せれ、海産物の獲得合戦に世界が乱獲に至る火花を散らせているではないのか「大いなる海も病んでいるそうだ」そこで先進知恵を生む最たる未来型町ち歩み時期なのかも!! 水槽養殖の先進地として誇れる・・一刻も早い町へ変貌しては。

 海の無い北竜町でタイやヒラメを観光の目玉に養殖事業化し、町民や観光客に提供する「竜宮魚」で町おこし?

 今世界は、日本食の大ブーム時代で、マグロ・タイ・ヒラメ・フグ・アワビ等、今や総ての高級魚が、漁獲制限を受け海の幸が、食せ無くなる「飽食時代」は、最早空前の灯火に、ここに日本人のモノづくりの執念が、発想・開発力に。

 まか不思議、素晴らしい、海が無くとも、「海の幸」が養殖生産も可能に成ったのは、「魔法の水」といわれる、海水成分の60種類の成分中の数種類の成分を、抽出し粉末化、淡水(真水)に、この数種の成分を入れると、海の魚淡水魚を養殖水槽にて海水不要の陸中での完全養殖が可能に、これまた、世界が仰天する水産革命最先端特許で、環境に優しく、コスト安・成長が早く・病気に強い・更にふ化率向上と、いいこと尽くめだ。完全陸上大量養殖時代が到来したそうだ「日本の発想力と開発技」の安全安価な生産は世界の海を制覇する海産国に進に違いない。

 今世界は、金融・地下資源・穀物・海産物の飢餓時代更に大地の砂漠化に陥り、輸出大国が輸出禁止措置を断行する等、食糧を国とり手段化、外国が日本の農地・森林に、買収に照準を合わせるなど、暗黒社会の到来にも。

 世界食糧危機は、人口が膨張し「91億人」これに反し日本は激減し「6千万人」この要因は、国策や天候異変絡みで、10年後食糧不足・水不足し、高騰率が15~40%、わが国は輸入大国、食糧自給率は、先進国では最低の28%と、飽食大国とは、言い難い、即陥る情況がそこにかかっているのかも。

 日本の食糧基地としての、北海道北竜町は、自然に恵まれ、育まれているこの大地から安全・安心農産物を生む、食糧の基本である農業・水産物に一層、特化し、食糧基地化を図る志向する町へ、変貌する「北竜」を構想をしては未来型水槽養魚観光へ、まず「活魚見て楽しませ、自然の里山で食させ、五感を満足させて、北竜産」活魚で活路を生む最たる未来型「町ち歩み」なのかも!!! 水槽養殖の先進地として誇れる・・・一刻も早い町へ変貌しては。

超エコ太陽発電

 日本の「モノ」づくりが世界を震撼させる革命「ナノワイヤー」技術で、太陽熱電池は現在のパネル方式の5倍もの1平方㍍で、一般家庭の100戸分の電力を発電するようだ これはすごい「ナノ技術集大成」。今、米・欧・で最先端技術を研究機関が開発を競っているが、日本独断上、北大教授がナノテクノロジー「ナノテク、超微細技術」を用いて5年後の実用化を目指しているそうであり、安全・安心エネルギーは、日本から始まる技術に大いに期待をしたい。

再生可能エネルギー(ヒートポンプ設備)

 危険を伏して、安全神話を笠に、推進し民業に加担しつつの「エネルギー政策」ここに来て、途轍もない代償として地域を破壊、再生に途方も無い巨費や、税金、苦しみを余儀された上、5年から10年を経なければ、国民の苦しみは癒えない。

 震災で資源の見直しの真っ只中にあって、本道、東北、日本全体が「地中熱(ヒートポンプ)」、地下10M程で年中10度から17度と安定した地熱を有効活用して、冷暖房が通年で安定資源化が可能に、国策としても基本計画が始動の中、国の補助事業を活用、サンフラワー北竜温泉は、本道での経済性・エコ時代の最先端を見越して、逸早く、この設備を導入して運用開始、脚光を浴びている。

 石油依存の社会構造から二酸化炭素を排出削減とクリンエネルギーとして、一般家庭での導入が、本道の企業にて、大きく安全でエコ資源として「国から地域市町村」の政策で、希望の栄える地域へと逸早く舵を取って欲しい。

 一世帯の設備費は、約壱百円程で国・街の補助率に期待できそうである。太陽光発電をアジアをターゲッツトとし、太陽の時差を活用(例中国へ提案は約2時間の時差)から生ずる電力を相互間に、これまた日本の送電技術『ケーブル』を駆使し、相克で利用しない夜間等の電気を「融通」仕合うが、超未来の「世界的エコ発電融通構想」日本が先行しアクティビティに舵取りを行ない、勿論国内の発電事業をも、発電と送電を分割しケーブルで網羅(電気のヘルツ統一)し、国内では四季を活用し相互融通体制を実現化すれば、新エコエネルギーのもの安全安心の電力大国へ大きく道筋を変更して欲しいものです。

夢の水稲増収技術が開発さる

 この度の衆議院選挙の公約で大きな課題としてクローズアップされた「TPP問題」に、大きく左右されるであろう農業生産に、一筋の光明として開発される増収遺伝子が発見された。

 東京農大が稲穂の枝分かれ促進遺伝子を発見(特許申請)品種名~TAWAWA(たわわ)、この品種は(こしひかり)一穂当たりの枝数が増えることで収量が、最大で4割増に到る研究者が究極の稲を開発したそう。

 食味も変わらず蛋白質も低く食味も現品種にも引けを取らないそうで、まさに競争力も抜群「農業者の夢の稲」が完成。

 只、玄米重が多少劣るが、競争力が絶大であり、5年後に一般栽培が可能となるようです、明るい未来型観光農業が一層一際、自然豊かな緑地溢れる北竜大地に輝き始めることを大いに願望しつつ終止符とします・・・ どうか・・・所詮作文づくりは、マジで下手でして、嘆き呟きばかり、老兵に免じて寛大なお心を賜りたい・・・。

 「北竜町民に慈しんで戴き」ありがとうと「名声高き街よ永遠成れ」の言葉を送りながら、ペンを置きます。

自分でも限りがないので・・・・です・・・あしからず



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北竜町民「吉本一夫(よしもと かずお)さん」

「続・友人への手紙」米田穣

2014/03/26 16:20 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/26 16:49 に更新しました ]

米田穣 氏  前略、その後もお元気の事と思います。
 とうとう、退職後二十二年、八十二才になってしまいましたね。毎日なんとか、元気に生活できる事に感謝しています。

 私は毎朝、早起きで、玄関を出て、東の方向に、旭岳が見えるか見ます。「お、見えるぞ、今日も元気にいくぞ」と大きな声を出し深呼吸を、三回ほどして、一日が始まります

 町の合同自分史は、前回、第八集でした。今年は、第九集で、前回から、約十年が経過しました。

 この十年間も、私なりに、行勤範囲はせばまりましたが、地球を歩き、走り、色々な行事に参加させてもらいました。ごく大ざっぱにまとめてみました。くわしい事は、後日、一杯飲みながら、写真やビデオなどを見ながら、おしゃべりしましょう。

一、五十歳 憲・遠泳のこと(山形県鶴岡市)

 平成三年三月、私のグループツアーが、ロシア、シベリア、バイカル湖氷上ツアーに参加しました。山形県最上の冒険家・大場満郎さんのアドバイスを受けて、その交流会で、五十嵐憲さんが、対馬海峡横断の計画のアドバイスの席上で一緒になり、意気投合して、それ以来、約十年間、遠泳を、カヌーで、サポート、お手伝いしています。

 五十嵐憲の遠泳記録(ホームページ

〇三年七月 対馬海峡(対馬・韓国プサン)四十七km 十八時間三十七分
〇四年八月 バイカル湖  三〇km 十五時間四十五分
〇五年八月 利尻・礼文  一〇km 三時間五十一分
      利尻・稚咲内 二〇km 九時間四十八分
〇六年八月 奥尻・富磯港 二七km 十三時間三十分
〇八年八月 中露国境の湖 一一km 五時間四十分
〇九年八月 焼尻港・羽幌 二三km 十一時間四十分

二、全日本マスターズスキー大会のこと

 毎年三月、東北地方、北海道を、順番開催地にやっています。私はクロカンスキーで、旭川・士別・名寄などを主に、同行者十名前後グループをつくって、全日本大会に参加しています。(つまり全日本じじ・ばば スキー大会)

一〇年三月 新潟県南魚沼大会
〇九年三月 岩手県雫石大会
〇八年三月 長野県枡組大会
〇七年三月 福島県猪苗代湖大会
〇六年三月 田沢湖大会
〇五年三月 小樽大会など

大会の様子は、一杯飲みながら、写真やビデオなどで説明します。

 その他に、平成十三年頃キリマンジャロ登山チベット・カイラス山一周とチョモランマ(エベレスト)五千三百米のベースキャンプ地やフィンランドスキーマラソン・アンコールワット了フソン・ブータンの旅・高石ともやワイルドラン会など想い出のビデオや写真お見せします。

 泳ぐ・滑る・歩く・走る・自転車 北空知を四季折々、あと五年くらいは元気に動き廻りたいですね。

平成二十三年一月


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北竜町民「米田穣(よねた みのる)さん」

「俳句二十句」山本玲子

2014/03/23 14:51 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/23 14:54 に更新しました ]

宮脇龍 氏 初日の出卑弥呼の謎の解けぬまま

初硯おもむろに決む筆の腹

掛軸に般若心経梅三分

鈴蘭やむかし半鐘ありし里

師の忌来る総立ちとなる松の芯

しづしづと祈りの育つ穀雨かな

翁逝く青田になるを確めて

古都守る幾重の山や利休の忌

向日葵の一本立ちや子のと

炎天の譫言めきし一鵜かな

碧水で生まれ和で秋桜

蜩や住めば都と唄いおり

魚偏の飴屋の湯のみ鰯雪

日勝の未完の馬や走り星

黒板の一足す一や雁渡る

人の知の果なき宇宙星月夜

櫓田のねぎらい青く伸びにけり

廃校の碑文明かるき冬の雨

数え日の静かすぎたる社かな

人脈の厚きわが村山眠る



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北竜町民「山本玲子(やまもと れいこ)さん」
半世紀に亘り詠み続ける「道俳句会・北竜支部」(2013年2月13日)

「秋の田」宮脇龍

2014/03/19 16:14 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/19 16:15 に更新しました ]

宮脇龍 氏  今年は、雪解が遅れ、それに加えて、五月から六月半ばまで低温が続き、どうなることかと心配であった。ところが長期予報に反して六月半ばを過ぎたころから、七月そしてお盆が過ぎたというのに暑い日が続いている。

 そのお陰で、窓から見える高畑さんの大きな田んぼ、そして毎朝歩いてくる五キロほどは見渡す限りの田んぼが、日一日と黄金色になってきた。

 私は農家の三男坊として生まれた。物心がついてから、稲の成熟した田んぼほど、うれしいものはない。黄金色に色づいた田を「田の色」ということを歳時記で知ったのは、最近のことである。

 高畑さんの田んぼは五月二十六日に田植がされた。それから毎日、雨の日も風の日もこの田んぼを見てきた。

 ここのところ兄の危篤がつづき、そして葬儀などで、気がつかなかったが、蛙の声がまったく聞こえない。恋の季節が終わったということであろうか。
 朝露の中を歩いてくるのであるが、何百枚もある田んぼの「田の色」が一枚一枚違うのである。近づいて見ると稲の一本一本、いや籾の一粒一粒の色が違う。こんな田んぼを見ると、うれしいというより「もったいない」そして「ありかたい」と思えてくるのである。

どこからか念仏ひらく稲の花 龍

 毎朝、こんな神神しい田んぼを見ないで過ごすわけにはいかない。雨の予報がでていようが、雨が降っていても、夜明けを待って、この田んぼを見ながらぐるっと歩いてくる。いまはちちろ虫の声が聞かれるようになった。

そして兄の三七日が過ぎた。

三七日の過ぎてしみ入るちちろ虫 龍

 ことしの夏の暑さといったらなかった。何十年振りかのことだそうである。私は町史編さんを手伝っており、そのためにパークゴルフに行っていないので、この猛暑をまともに受けることがなかった。やれやれである。

 春から夏にかけて、ぶらんこ毛虫が大発生し、街路樹のナナカマドの葉が、殆ど食べられてしまった。わが家の大きな紅葉も葉を食べられ見るかげもない。この時期、物干竿に洗濯物を干すことができなかった。
 このぶらんこ毛虫の駆除に、町中、大童で駆除の薬は絶えず品切れであった。

 今は、クスサンという枯葉のような、大きな蛾が大発生している。夜になると街頭に群がり、毎朝、この蛾の死骸の後片付けと、壁に産みつけられた卵の処理に四苦八苦である。これらは、異常気象のせいであろうか、それとも宇宙とは、人間の力の遠く及ばない計り知れないもののように思えてならない。

 九月七日の夕刊によると、農業人口がことしの二月一日現在、二六〇万人で、五年前に比べて七十五万人、二二・四%減少しているという。

 農業従事者の平均年齢は六五・ハ歳と高齢化が進んでいるという。果たしてこのようなことで国民の食糧の生産は大丈夫なのだろうか。これには政治の力が必要だと思えてならない。


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北竜町民「宮脇龍(みやわき りゅう)さん」
半世紀に亘り詠み続ける「道俳句会・北竜支部」(2013年2月13日)

「秋」宮脇龍

2014/03/18 14:11 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/18 14:42 に更新しました ]

宮脇龍 氏  六月中旬から暑い日が続き、稲もひまわりも、そのほかの作物もすっかり元気になった。

 これは、ありかたいことである。ところが、平成十二年に脳梗塞の手術をしてから、兄は失語症となってしまった。

 ずっと自宅で療養を続けてきたが、昨年から特別養護老人ホーム北竜町永楽園に入園、ほっとした。が、なん度も肺炎に罹り、その都度深川市立病院に入退院を繰り返した。今年になって永楽園から深川市立病院へ、そして北海道中央病院へ移されてしまった。

 ずっと看護を続けてきた義姉が「夏を越せそうもない」といった。なん度か危篤になり八月四日に逝った。

 私にとって兄は、重石のような存在であった。それだけに今は、ぽっかりと穴が開いた心境である。ただひたすらに冥福を祈るばかりである。春以来、兄のことが気掛りであったが、胸のつかえが無くなった。

ちちははも兄もあの世へ秋立てり 龍

 兄についていえば、なにかと注意をされる煙たい存在であった。兄は若い頃、冬になると馬で山から木材を和駅の土場まで運び、その帰り道、光星夫人の小さな店で、饅頭を食べるのが楽しみであったという。
 たまたま北光星さんがいて、誰か俳句をやらないかといわれたという。「俺はやらんけど弟ならやるかも知れない」といったそうで、私が、光星先生から俳句の指導を受ける「橋渡しをしてくれたのが兄である」これは不思議な縁だと思っている。

 兄が危篤になり、一週間ほど家を空けた。兄の葬儀を終え、畑へいくと、トマト、茄子、胡瓜がとんでもなく大きくなっていた。手頃の大きさになった茄子を一夜漬けして、これを肴にビールを飲みたいと思っていたのに、大き過ぎて漬物にならないという。それで焼茄子か油で炒めることになった。

 それはそれとして、わが家の野菜は露地物である。ときには寒さ、暴風雨に見舞われることがあったが、恵みの雨であったり、なんといっても太陽の光をたっぷりもらって育つ、大自然へ天からの贈物である。  それと馬鈴薯も新じゃがとして食べているし、トウキビもこれからが食べごろになる。

 畑の縁に六〇本程植えてあったひまわりは、花を楽しませてくれたあと、実は小鳥たちが食べ、これを抜いて刻み堆肥となった。

 ところで北竜町永楽園、深川市立病院、北海道中央病院で、看護の人たちに、兄は大変お世話になった。ただ兄は自分で食事が食べれないようになってから、点滴であったり酸素吸入などの「延命」措置によって、苦しみながら、何十日も生きることができた。

 これが天寿を全うしたことになるのであろうか。私は兄の命を大切にしたとは、どうしても受け入れられないのである。もっと人の命、寿命を大切にしてほしいと思った。色づき始めた田んぼへ向って、兄の霊柩車が停止して、クラクションを鳴らしてくれた。


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「お楽しみ会」中村幸子

2014/03/13 14:45 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/13 14:53 に更新しました ]

中村幸子 氏  私には、年に一度の楽しみな行事が、三つも持っております。どの行事も顔ぶれは違いますが、どれもこれも本当に楽しくて、悲しい話でもすぐ笑いを誘う場面へ持ってくの。

 一つは 「六・三会」これは我が家の次男が小学六年三組の時、お世話になっていた担任の先生と、その母親達との集いとでも申しましょうか。息子が卒業してからも、六年三組の名を借りて、六・三会と命名、今も楽しんでおります。担任の先生は、時には体調を崩される事もありますが、我々熟女達七名の誘いに負けて、殆ど出席してくれます。もう二十年も続いております。

 一つは、「フリージア会」 これは花の様に美しく若くて黄色い声を発していた頃からの仲間、つまり同期生での集いです。
 気心も知れていて、何を言っても許される間柄。コテージー棟貸切って、大声を出しての語らいをしています。
 たまたまそのコテージが二年続けて同じフリージア棟だったので、そこからこの名前に。
 札幌四人、滝川一人、北竜二人、深川一人、そして遠軽一人、時には東京から一人飛入る事もあり、本当に楽しみな年中行事の一つです。

 一つは、「北自OB会」これは主人が勤めていた頃の仲間同志での集い。勤めから解放されて、我家は別としても悠悠自適の生活を送っておられる方々。夫婦同伴にて十名程でパークを楽しんだ後、裸同士で汗を流し合い、湯上り後の乾杯のビールの美味なこと!酔いが回り、目も回り、地球も回って楽しいよ。

 フリージア会も、この北自会も七、八年続いています。
 どの会も本当に大事です。
 いつまでも元気で続けられたらいいなあーと思っております。


◆ 北竜町民・中村幸子(なかむら ゆきこ)さん

「普通な事に感謝」中村幸子

2014/03/11 13:35 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/13 14:53 に更新しました ]

中村幸子 氏  いつもの様に、ふつうの事がふつうに出来る有難さに改めて感謝するものでございます。
 自由が効かず、不便な思いをした事があったもので尚更、有難味を強く感じました。

 二年程前、不覚にも滑って転んで左手首を骨折してしまいました。
 はじめてのギプスをされて、片方だけの手しか使えない不自由さを味わいました。

 その間、そのギプスの圧迫により、顔に似ず柔な肌の持ち主であったのか、手首から肘の間の皮膚が赤く膨れ上がり、火膨れ状態になっていきました。
 骨折の方よりも、こちらの方が不安になりかなりな重症患者に見えたようでした。
 が・・さすがそこは整形外科の田中先生。あわてる事もなく、優しく丁寧に診てくれて、日時はかかったけれども、その皮膚の方も骨折の方も同時に快方へと向かっていきました。その時の田中先生の手が、魔法使いの手のように見えたものでした。

 それからが大変Iリハビリという部門が待ち構えていたものでした。
 童顔で若いリハビリの相馬先生と出合い、「お手やわらかに・・・」と懇願するも、すっかり固まった指、手首、しまいには肩までもが思うように動いてくれませんでした。

 相馬先生は、その痛さから少しでも気を紛らわせてあげようとして、「今日は空が青いネ、雨もないネ」と世間話を持ちかけてくれていましたが、私には
 “そんな天気なんかどうでもいい”
 “早く終ってほしい”
 只それだけ思っておりました。

 普通の人の倍くらいの月日はかかった様でしたが、毎日毎日つらいリハビリを受けてたお陰で、今では当然のごとく以前のように何でも出来るようになりました。

 整形の田中先生、リハビリの相馬先生・・・
 本当にお世話になりました。
 有難うございました。

 そうそう、先生以上にも大変お世話になった人がいました。それは我が家のご主人様。
 私の毎日の通院での送り迎えから始まって炊事、洗濯、掃除とイヤな顔一つせずに本当によく助けてくれました。

 主夫業がすっかり板についたように見えて有難かったものでした。
 今は、あの時の恩返しのつもりで、ホステスとは言えないけれども、一寸科をつくって好きなお酒のお酌をしてあげております。
 人々に感謝、普通にも感謝・・・


◆ 北竜町民・中村幸子(なかむら ゆきこ)さん

「警察署に初電話 親切対応に感謝」中村幸子

2014/03/09 14:28 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/13 14:48 に更新しました ]

中村幸子 氏  いつもなら小一時間位で帰って来るのに、その日は三時間経っても散歩から戻らない夫。
 外も暗くなって不安が募ります。

 悪い方にしか考えられず、つい受話器に手が伸びました。
 「何か事件とか事故などの情報は入っていないでしょうか?」

 生まれて初めて警察署へ電話をしました。署の方は、こちらの不安な気持ちを静めるように、優しく事情を間いてくださり、夫の年齢や体型、服装などを訪ねた後、「関係先に当ってみましょう」と言われました。

 そうこうするうちに聞き慣れた足音が・・・。何食わぬ顔で夫が帰って来ました。遅くなったのは寄り道のせいですが、その理由を聞く前に、腹立たしさと安増殖が入り交じって複雑な気持ちになりました。

 それにしても普段は縁のない警察署の温かい対応が、心にしみました。ありがとうございました。

 “北海道新聞”「読者の声」
 二〇〇七年六月二十七日付 投稿掲載より


◆ 北竜町民・ 中村幸子(なかむら ゆきこ)さん

「田中昭三とスポーツ」田中盛亮

2014/03/05 13:38 に 寺内昇 が投稿   [ 2017/03/01 20:01 に更新しました ]

田中盛亮 氏  田中昭三は、父与平、母イヨの三男として、昭和三年二月、北竜町宇和にて出生し、昭和五年頃西川に移り住み成人した。
 生まれつき病弱で三回も生死をさまよったと間いている。特に小学校に入学する年の二月、風邪を拗らせて急性肺炎となり、医者にも見放され、食欲もなくなり日に日に痩せ衰えて自力で立つことも出来なくなった。

 その時父与平は、隣の兄の池から雪を掘って大きな鯉を一匹貰って来て、その生き血を飲ませてもらいそれから元気が出て、食欲も少しずつ出てきた。そして二週間もすると物につかまって立てるようになり、嬉しくて壁伝いに歩いて茶の間の戸を開けたら、家族の人達は痩せて骨と皮の者が顔を出したので、死んで幽霊が出て来たのかと思ったそうです。

 その後もめきめきと回復して、一ヶ月遅れで入学するのであるが、体力のない昭三にはランドセルが重く重労働であったようである。二年生の時も病を患い一ヶ月遅れで登校したそうである。

 学校の成績は良い方であり、特に習字は抜群であった。体力のない昭三にはスポーツは苦手で何をやっても最下位であった。その事は小学校の高等科を卒業するまで続いた。

 当時の農家の子弟は二男、三男と云わず殆どが農業に従事することであった。男も女も全てが青年団に入団し、学習や軍事教育、スポーツ等を通じて親睦を深めて行ったことである。

 昭三には当面二つの悩みがあった。
 その一つは、同年代の殆どの人が米一俵担ぐことが出来るが、昭三にはそのことが出来ない侮しさがあった。
 もう一つは当時大東亜戦争の真只中であり、体力がなければ敵と戦えないからである。

 昭三は毎日毎日、体力をつけることに専念した。暇さえあれば納屋に行って米俵に挑戦し、率先してスポーツに取り組み、夏は相撲や陸上競技、冬期間はスキーや銃創術と身体を鍛えることであった。その甲斐あって十六才の頃から体力がつき始め二十才頃には人並み以上の身体となった。スポーツも持前の負けん気と努力、そして研究心で、ビリからトップに躍り出たのである。

自転車競技

 戦後、昭和二十一年より国民体育大会が開催された。通称「国体」と云われている。
 先輩、岩井忠作氏は、第二回国民体育秋季大会の自転車競技に北海道代表として出場した。こんな小さな村から国体選手が出るなんて大したもんだとすっかり刺激され、昭三は「ようし俺もやってみよう、岩井忠作氏より強くなれば国体に出られるんだ」目標が身近にあります。

 然し自転車を買わなければ競技に出場することは出来ません。現在では一日働けば自転車の一台位買えますが、当時の労賃と物価の価が大きかったのです。二十日位働かないと自転車を買う事が出来ませんでした。昭三は、冬期間馬稼ぎをして、競技用の自転車を続木自転車店で求めるのであった。
 続木自転車店の続木茂文氏は熱心に選手の育成に情熱をそそぎ、道の協会役員も務めていたのである。

 先輩には、佐野弘氏や相馬正行氏も全道的に活躍した選手を目標に、岩井忠作氏を中心に常時六、七人の選手と練習を重ね、全道各地の大会に出場し北竜の名声を高めたことである。
 昭三も力を付けて、各大会に於いて二位以下に落ちることは無かった。当然国体予選も勝ち取り、岩井忠作氏と共に北海道代表に選ばれたのである。

 第三回国体は昭和二十三年十月二十九日より十一月三日まで、九州の小倉市で開催されるのであるが、その事を道より村役場に通達があり、参加費用の支援要請があった。村長は財政難から一切援助は無く、仲間の田川三次氏が青年団にお願いをし、素人演芸会を開いてもらい、その益金を二人の費用に当てたとのとである。
 この善意に感動した二人は何としても予選位は勝たなければと頑張り、二人共予選を通過し、昭三は予選も準決勝も二位で通過し、決勝は六位と敗退するが、北海道では唯一人、天皇杯得点を勝ち取った事は大健闘である。
 出場選手の殆どがノンプロ選手に比べて昭三は農家の子弟であり、稲刈りの間、朝飯前、昼休、夕食後が練習の時間であり、他県の選手との練習に大差があり、準決勝から二時間後の決勝では体力の回復が出来ず、スタミナに大きな差があった様である。

 国体に出た選手には試験無しでプロになれる制度があって、昭三はプロの世界に入ると云ったが、頑固な父与平は、自転車でメシは食えないの一点張りで、猛反対され断念した。他の北海道選手は全てプロ入りした。岩井忠作氏も壮年になるまで活躍したことである。
 昭和二十四年も、昭三は国体予選に出場し、代表権を得るが辞退し参加しなかった。

俵担ぎ競技

 青年団の陸上競技に俵担ぎと云う種目がある。昭三は本村の代表として、北空知大会には、四〇〇米、八〇〇米、千六〇〇米リレー等の選手として出場し、八〇〇米では、記録保持者、妹背牛の大窪選手を破り優勝したり、千六〇〇米リレーの一員として優勝するが、自分に一番適している種目は俵担ぎ競技と決め、北空知大会に出場させるよう依頼するが既に二人の代表が決っていた。

 青年団の幹部も昭三君なら勝てるような気がすると云った。然し代表に決っている二人は納得しなかった。青年団幹部は何回も二人を説得し、それでは三人で再試合をして見ようと云うことになり、その結果大差で昭三が勝ったのである。
 北空知大会に出場することが目的では無い。大会で勝つことだ。昭三には優勝以外考えていない。望みどおり優勝することが出来た。タイムは十五秒四である。この記録はその後も破られなかった。

 依担ぎと云う種目はどんな競技だろう。
 重さ六〇キログラムの土俵を担ぎ、八十メートル走る競技である。
 青年団の出場資格は年齢二十五才までとなっている。昭三は二十五才、青年最後の年にこの種目にかけたのである。勿論北空知の青年幹部の間でも、昭三は全道大会優勝の最有力選手であった。

 美唄の全道大会では、体格の大きい選手がいるので、相撲の選手かと聞くと、俵担ぎの選手と云う。でも昭三は自信が有った。相撲をとっても、走っても俺の方が強いと思った。
 大会当日土俵は何十俵も用意されている。選手はその中から自由に土俵を選ぶのである。昭三は後半の出場なので、ゴール地点で記録をチェックするが、皆十六・十七秒台である。

 いよいよ昭三の出番である。号砲と同時に一気に俵を肩に持っていくが俵が上らない。縦縄がぶっつり切れた。昭三は一瞬競技を中止しようと思った。他の選手は既に走り出している。然し担ぎ直しても追い付く自信はあった。次々と前の選手に追い付き、抜いたが、もう一人を技くことが出来なかった。運悪くこの組に優勝した上川代表の賀集一正(後に旭川市議会議長となる)がいた。タイムは十五秒七であった。北空知の佐々木実会長は再試合を申し立てたが受け入れられなかった。土俵は自分で選んだという理由もあったようである。

 その年の全国大会の記録は十五秒三であり毎晩練習を重ねてきた昭三にはその記録は充分勝てる記録であっただけに残念である。

相撲

 戦後の青年団活動は、陸上競技大会、相撲大会、弁論大会が活発に行われた。特に相撲大会は、青年団の対抗大会の他に各神社のお祭の奉納や各寺の催し事の余興として盛大に行われた。
 優秀な力士は町内ばかりでなく、北空知は勿論のこと、滝川や砂川、旭川方面まで花相撲を取りに遠征するのである。どこの町村にもそんな力士は五人位はいた。昭三も年々力をつけ、三十才位が一番強かった様に思われる。

 北空知も江部乙を含め十二町村有り、青年団対抗の大会も盛大に行われ、昭三も北竜の代表として参加し、ある年は、先鋒として十一戦全勝で敢闘賞も受賞したこともあり、全空知の大会で団体四位の成績を収でめた。
  当時空知は、東洋高圧を中心に、石炭全盛時代であり、全道を代表する選手が殆んどいる空知で団体四位は大健闘であった。

 その時代では、管内に行っても上位で戦える力士には、化粧廻しを与えて出世相撲をするのである。出世相撲をしてもらえる力士は、各町村に一人か二人で、力士としては大変名誉なことである。化粧廻し一本造るには何十万円の費用がかかり、それは住民より寄附を募り盛大に披露の大会をするのである。

 昭三もその名誉を受け、二代目眞龍山として、杉本幸一郎氏は杉の里として、眞龍神社の秋祭りの奉納と合せて行われ、全道各地より一流の力士が集い盛大に行われた。
 又一秋に十六回の役相撲をとって一回負けただけで十五本の御幣を取ったことが有った。
 昭和四十六年九月、眞龍神社秋祭りの奉納相撲の折、眞龍山、杉の里共に引退相撲を行い、一線より引退した。
 その後化粧廻しは三代目眞龍山(故辻伴行氏)に受け継がれた。

その他のスポーツ

 昭三は、スポーツには何でも挑戦した。持前の負けん気と勘の良さ、研究心と努力によって他より早く技術をマスターし強くなった。

● スキー大会

 戦後間もなく(昭和二十二年頃)久々に三谷のスキー場で、和地区のスキー大会が開催された。

 昭三は馬と共に、冬山造材の飯場に登る日であったが、スキー大会に出場すべく一日遅らせた。滑降競技は三位であったが、登って行って滑り降りる競技やみかん袷いの様なゲーム的な競技もあり、それは二種目共一位であった。
 午後からは距離競技で、大差で優勝すると、引き続きリレー競技である。仲間三人とチームをつくり昭三は第一走者で二位以下を大きく離して第二走者村上、第三走者新谷と継ぎ、これも大差で優勝する。
 最後の競技はジャンプで、これには昭三は出場しなかった。優勝したのは時水重行氏で綺麗なフォームで、飛距離は十メートルと記憶している。
 昭三も満足して、次の日愛馬と共に出稼ぎに旅立った。

● 柔道

 当時小学校の先生で、藤沢多助さんという柔道四股の人がいて、冬期間劇場を利用して、柔道の練習をした時代があった。昭三もそこで練習を重ねて仲間五人と北空知の大会に出場した。実力的にかなり差があったが、普段相撲をとっている昭三と杉本幸一郎さんは引き分けであった。一般の声では初段位の力量があったようである。

 昭三は幼い頃より動物が好きであった。愛馬も常に力の強いものを飼い、村一番か二番の馬を持っていて、昭和三十年頃挽馬競争が流行り、昭三も「ロザン」という強い馬を持ち、村内で優勝すると北空知でも何回か優勝旗を持ち帰って来た。
 こんな状況が全道的になり「ばんえい競馬」が始まったように思われ、その時強い馬を持っていた人達が北空知には何人もいて、道営のばんえい競馬に「プロ」として進んで行った人は何人もいる。

 昭三は昭和五十年頃より土佐犬を飼うようになり、札幌へ移住してからは数頭の土佐犬を飼い、数多くの闘犬大会で優秀な成績を収め、「眞龍山」や「荒法師」の横綱としての大きな認定書が居間に誇らしく飾ってある。
 動物も飼い主の気性がわかるのであろうか、戦う姿を見てそんな感じがした。

 田中昭三のスポーツについて甥の私が執筆することは誠に烏滸がましいが、友からの勧めもあり寄稿したことをお許しください。完


北竜町民「田中盛亮(たなか もりすけ)さん」

「中学校を卒業するまで」田中盛亮

2014/03/02 13:48 に 寺内昇 が投稿   [ 2014/03/02 13:49 に更新しました ]

田中盛亮 氏  学校の成績も悪く、体力もなく、スポーツは何をやっても下手な私の少年時代であった。社会人になってから、色々な組織に参加させていただき、今こうして多くの皆様と交流出来るのは何だったんだろう。
 立派な先輩と、すばらしい仲間に恵まれ、その方々に多くのことを学び、今を育ててくれたからであり、今そのことに感謝の日日である。
 町文化連盟より投稿の機会を得たので、今まで歩んだ道を振り返ることにした。

幼少の頃

 私が物心ついたのは小学校に入る頃であった。なぜかそれ以前のことは余り思い出せない。

 その頃、我が家では祖父母を中心に、父、父の弟四人、父の妹と私の九人家族であった。なぜか私の母はいなかった。両親は離婚していたのである。
 私の身の廻りの面倒は祖母が見てくれていた。いわゆる「ばあちゃん子」である。したがって母がいないことは不思議でもなかったし、淋しくもなかった。叔父さん達も私を弟のようにして面倒を見てくれた。

 小学校への入学には、祖父が連れて行ってくれた。父も祖母も何か用事があったのだと思う。
 内気な私は決して祖父の傍を離れることは無かった。元気の良い子供達は、大声を上げて廊下を走っていた。私には不思議でならなかった。自分との差が大き過ぎたからである。
 八十人位の入学生かいたが、私は七つあがり(当時の年の数え方)でもあり、勉強は出来ない方であり、定かではないが五十番以下だったと思う。そんな私の名を「モッケ」と呼ぶ人が多かった。「モリスケ」を早や読みでそうなったのだろう。私はこう呼ばれるのがいやであった。誰が考えたのか「モッケモッケ花モッケ花から生れた赤○○○」とからかう者もいた。尚更劣等感が強くなってきた。今では「モッケの幸い」と思うのだが。

 昭和十八年の入学だから、戦争の眞最中、毎日の様に兵隊さんの見送りである。その頃はまだ札沼線があり、和駅で小旗を振りながら

  勝って来るぞと勇ましく
  誓って国を出たからにゃ
  手柄たてずに帰らりょか
  進軍ラッパ聞くたびに
  瞼に浮ぶ旗の波・・・ (違うかな)

ここまで歌うと、汽車は静かに動き出す。
兵隊さんは、大きな声で「行って来ます」

 その後、鉄道の線路が取りはずされ、見送りは眞竜神社となった。神主によって神事が行われた後、兵隊さんは皆に挨拶をして、妹背牛駅まで歩くのであった。

 我が家でも、保叔父さんにも招集令状が届き、昭和十八年三月九日に出征するために、頑固な祖父も、心をこめて戦地に送り出すべく、親戚や近所の人達を招待して、出征の宴を持つのであるが、酒の手に入らない時代なので、祖母は「ドブロク」をたくさん作り皆に振る舞ったのである。
 国は勿論のこと、一般社会や学校教育も、戦争一色であり、外国語は一切禁じられた。特にスポーツは大変で、ストライク等の言葉は使えず、いい球一球だそうで、音楽もドレミファでなく、「はにほへといろは」であった。

 三年生になった時に、我が家に新しい母を迎えることとなった。お互いバツイチであった。次の日に学校へ行くと、そのことを知っている級友がいて「おめでとう」と云ってくれてテレくさくもあり少し嬉しかった。
 それまで父と寝ていた私は、独立した布団に寝ることとなり、八畳間に叔父さん達と、東西南北に頭を向けて、中央にお互いの足が合わさるように布団を教くのである。冬期間は湯たんぽが無いので、手頃の石を焼いてそれを湯たんぽがわりにするのであった。

 昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を迎える訳だが、日本の全てがマッカーサ元帥が指導する進駐軍の指導に依るものであり、我々生徒の最初の作業は、教科書でさしさわりの文面は全て墨で塗り潰すことであった。その作業は何日もかかったような気がする。

 昭和二十一年三月になって、保叔父さんが兵隊から帰ってきた。三月九日は出征と同じ日であり、満三年の北支での兵隊生活であった。間もなく新しい母に子供がさずかり、叔父さん達が結婚して分家しても、次々と子供が出来、常に我が家は十人家族であった。
 結局五人の弟や妹が出来たこととなり、その子守りは私の担当となった。したがって皆のように水泳に行ったり、野球をしたり、スキーを楽しむことが出来なかった。

 勉強も相変らず出来ない方であったが、叔父や叔母は優秀な方だったので少し気になりだした。四年生の時の担任は坂野先生で、この先生は、私の父といとこに当る人だったし、五年生の担任は河上先生で、この人は私の叔母と大の仲良しだった。この頃から成績の悪い事が気になり少しずつ勉強をするようになった。

中学校時代

 昭和二十二年四月より日本の学校教育も、六、三、三、四制となり、昭和二十四年四月より私は中学生となるのだが、当時は和中学校と云い、眞竜小学校の教室を間借りをして勉強するのであるが、教室が不足し、私達は元畳工場を利用して勉強するのであった。

 念願であった独立校舎は、現在地に建てられ、昭和二十五年六月より全町一校として、新出発したのだが、一年位経過して、美葉牛と竜西は地元の小学校に戻った事である。
 その時点で生徒会役員も再編された。役員選考に当っては、生徒会長と執行委員長は投票で決められるが、他の役員は先生を通じて、指名された。私は書記長に任命された。
 今のように放送施設が整っていなかったので、後の方まで声が届かず「間こえんぞ!」とヤジられた事もあった。私には重荷であったが全ては月日が解決してくれた。

修学旅行

 中学三年生になると修学旅行がある。旅行に参加するかどうかは、父兄の同意が必要であるが、当初は同意が得られない生徒があり心配であったが、最終的にはほとんどの生徒が参加出来る様になった。

 然し私にはもう一つ心配な事がある。それは乗物酔である。六年生の時も小樽まで行ったのだが酔ってしまった。今回は函館から洞爺湖方面、案の定車酔をしてしまい、洞爺湖のホテルに着いた時は重病人になっていた。
 翌朝昭和新山を見学する事であったが、私一人ホテルに残り、医者に注射を打ってもらい、やっとの思いで帰郷した。高い負担金を払い何一つ身につけることもなかった。恥かしさと残念が入り混じった修学旅行であった。

農作業

 当時の農業は馬と手作業に依る営農形態であり、秋の稲刈り期間になると、農繁休暇と云って、一週開校学校を休校にして、総動員で稲刈りを手伝うのである。農業外の生徒も知り合いの家で稲刈りをするのであった。
 我が家は家族が多い割に農業労働者が少なく(それは農業外に勤めていたため)私の休みになるのを待っていた。それどころか休暇が終っても休んで稲刈りを手伝えと云うのである。

 私は本年一度も学校を休んでいないので休みたくなかった。そこで考えたことは、早引きをして休みでなくすることだった。朝始業時ぎりぎりまで稲刈りをして、畦道を走って家で学生服に着替えて、学校では一時間だけ勉強して、そんなことが一週間位続けるのである。お陰で卒業式には皆勧賞をもらうことが出来た。
 今思えばがめつ過ぎたのかと思う。然し一面このようなことも必要な場合があるような気がする。

進学と就職

 昭和二十七年になると戦後も少し落ち着いて来て、高校進学も半数位になり、女生徒の進学もあるようになってきた。私は農家の跡継ぎだし、働き手も少ないので進学も断念していた。
 その頃沼田高校の分校のような形で、定時制の高校が北竜中学校内(後に北竜高校として独立校舎が出来る)で授業が始まり、生徒増員のため岡田先生が我が家に来て勧誘するのであった。

 我が家では全てのことは祖父が、実権を握っていた。この時初めて祖父与平は父に、お前の子だからお前が結論を出せと云った。
 父は少し考えてから「だめだ」と云った。
 自分の本心だろうか、それとも祖父与作に気を使ってであろうか。
 祖父与平は、石川県の生れで学校へは三年しか行かなかったと云う。当時の学問は、読み、書き、そろばん、と云った。与平はそれだけで今日まで何不自由なく生きて来たと云う、六年も九年も学校へ行けば充分過ぎると云っていた。自分の子供も皆勉強は出来た方であったが唯一人も進学させなかった。貧乏もあったと思うが学問には理解を示さなかった。
 孫の進学に対しては一切口を出さなかった。少しは時代感覚を察知していたのだと思うが父は与平の日頃の考えに遠慮して私に進学の許可を与えれなかったような気がする。
 私自身も是非進学したいとも云わなかったし、結果に対してぐれることもなかった。

 後年、高校卒の資格が欲しく、野幌高等酪農学校の通信科を受け、高校卒の資格だけは取得することが出来た。中学卒業と同時に農業後継者として就農すると同時に、地域の青年団に入団し新たな人生が始まるのである。


北竜町民「田中盛亮(たなか もりすけ)さん」

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