2023年3月31日(金)
3月25日(土)サンフラワーパーク北竜温泉で開催された、北竜町で31年ぶり5人目の北竜町名誉町民「黄倉良二氏 名誉町民 祝賀会」にて、参加者に配布された小冊子(A4カラー24ページ)『黄倉良二氏・食べものはいのち(生命)』の全文をご紹介いたします。
- 1 履歴
- 2 受賞
- 3 赤貧の百姓時代
- 4 くる病を患う小学校時代
- 5 午後から農作業を営む中学時代
- 6 ほとんど出席せずに卒業した北竜高校時代
- 7 20歳のとき消防団入団
- 8 地位と名誉と金を求めるな
- 9 自然農法の実践・50年程で500回を超える講演会
- 10 農協合併前の低温倉庫建設における秘話
- 11 生協と北竜農協との北海道米消費運動の開始
- 12 北竜農協・青年部女性部が安全な食糧の生産に立ち上がる
- 13 町が一丸となって「国民の生命と健康を守る安全な食糧生産の町」を宣言
- 14 ひまわり農協と姉妹提携
- 15 米の闇取引
- 16 PHP研究所主催のシンポジウム「コメと日本人と伊勢神宮」に登壇
- 17 お弁当・お惣菜(株)マコト(東京都)と黄倉組合長との出会い
- 18 広域合併によりきたそらち農業協同組合設立(平成12年・2000年)
- 19 協同組合運動の原点「いのち(生命)・食糧・環境、そして暮らしを守り育む」ことが基本
- 20 あとがき
- 21 小冊子・黄倉良二氏『食べものはいのち(いのち)』(A4版26ページ)
- 22 Bài viết liên quan
履歴
・生年月日:昭和14年(1939年)年6月1日生まれ
・現住所:北海道雨竜郡北竜町字板谷
・父・春吉 母・瓢(ひさご)の次男
学歴
・真竜小学校
・北竜中学校
・北海道北竜高等学校
団体歴
昭和46年1月〜昭和47年1月 北竜町農業協同組合青年部副部長
昭和47年1月〜昭和48年1月 同 上 青年部部長
昭和48年3月〜昭和60年3月 同 上 理事
昭和60年3月〜平成 2年3月 同 上 組合長代理事
平成 2年3月〜平成 3年3月 同 上 専務理事
平成 3年3月〜平成12年1月 同 上 代表理事組合長
平成12年2月〜平成14年6月 きたそらち農業協同組合
代表理事専務
平成14年6月〜平成19年4月 同 上 代表理事組合長
関係組織歷
昭和51年4月〜平成10年5月 北空知農業共済組合 理事
昭和51年6月〜平成10年5月 北竜町農業委員会 委員
平成 8年6月〜平成11年6月 (財)北海道農業開発公社 理事
関係団体歴
昭和39年2月 北竜町消防団入団 入団
昭和48年1月〜昭和55年12月 同 上 第1分団班長
昭和55年1月〜昭和63年 3月 同 上 第1分団部長
昭和39年8月〜昭和51年 3月 北竜町体育指導委員会 委員
昭和48年4月〜平成 3年 3月 北竜町体育協会 副会長
平成 3月4月〜現在 同 上 顧問
平成 3月4月〜現在 北海道有機農業研究会
理事、監査理事
平成 3月4月〜平成13年 5月 (株)北竜振興公社 理事
受賞
昭和46年5月 北竜町表彰条例に基く表彰(スポーツ功労) 北竜町
平成 3年7月 北竜町体育協会功労賞 北竜町体育協会
平成14年5月 北竜町開町110年記念表彰(特別功劳者) 北竜町
平成18年1月 北海道產業貢献賞(農業関係功者) 北海道
令和4年12月 北竜町名誉町民称号 北竜町
赤貧の百姓時代
黄倉家は、昭和元年(1926年)に板谷農場に入植。3町8反183枚の小さな田んぼだった。
黄倉良二さんは、6人兄弟(4男子・2双子女子)の次男で、母親の母乳がでなかった赤貧の環境で育つ。
くる病を患う小学校時代
昭和21年(1946年)4月に真竜小学校に入学。虚弱体質のため、小学校入学時は背中が曲がり、栄養失調による「くる病」と診断されていた。
小学校では、各自が弁当持参。良二さんは白米ではなく、麦・粟などの麦飯に菜っ葉の漬物がおかずだった。
3年生の後半頃ようやく白い御飯が食べられるようになる。
当時、祖父母が知り合いから譲り受けた廃牛を飼育。孫の生命を守るために、畦草で育てた牛の生乳を絞って良二さんに飲ませてくれた。
良二さんは内蔵が丈夫であったため、生乳で胃腸障害を起こしたことは一度もない。
食べものはいのちの原点
カルシウム補給として生乳を飲むようになってから、小学校4年生・5年生の頃より徐々に体調が改善。
中学校のときには、徒競走で1番・2番をとっていた。高校時代になると、背中はほとんどわからないくらい真っ直ぐに回復。「現在健康でいられるのは、じいちゃん・ばあちゃんのお陰」と語る良二さん。
幼児期の病弱な身体の体験が、自然の食べものがいかに大切であるかを身をもって感じたという。良二さんにとって、幼少期の経験が「食べものはいのち(生命)」の原点。
午後から農作業を営む中学時代
中学時代は、教科書は兄のお下がりを使用。毎日、午後からはほとんど農作業で、春には田植え・除草機押し(八反歩)・手取り草取り、秋には稲刈り・はさがけ・はさおろし・脱穀まで手伝っていた。
当時6月の修学旅行に参加できない生徒が5人いた。修学旅行に参加できない上に、真竜小学校に行って薪切りをした。
北竜中学校3年の卒業式で、以上総代(121人の卒業生代表)として卒業証書を授与されることになった時、学生服を持っていなかったので、先生の古い学生服を借りて登壇。運動靴の代わりに長靴を切って履いていた。
どんなに貧しくても、気持ちがいじけることもなければゆがみもない。何より「イジメ」がなかった。
121名の卒業生の内、全日高校に入学したのは6名ほどで、大学に進学した学生は3名ほど。進学できる生徒がかなり少ない時代だった。
中学校弁論大会に出場
中学3年の9月に全校弁論大会が開催され、全学年から計9人が出場。良二さんは自ら参加を希望。当時どうしても訴えたいことがあった。タイトルは「二度と繰り替えすな原爆の悲劇(原稿用紙5枚)」。
「原爆の被害を受けた日本が9年も経過した今、ビキニ環礁で漁船が実験の被害を受けて漁船員が亡くなるとはこれを繰り返してはいかん!」という強い想いをどうしても訴えたかった。
担任の先生から「発表前に原稿内容を確認するので事前に見せなさい」という言葉を振り切って登壇! 見せて内容を訂正されるくらいなら参加しないと宣言して。
結果として「良二さんの弁論は、中学生としては難しすぎる」という浅野教頭先生の講評を受け、受賞には至らず。
離農勧告を受けた中学3年の12月
当時12人家族(祖父祖母・父母・叔父2人・兄弟6人)暮らしの中、農協から離農勧告を受ける。長男の兄は離農勧告を受けた後、札幌へ大工・建築の奉公大工に出る。
病弱なお母様を抱え、農協からの大きな借金を背負う黄倉家の状況を知っていた後藤三男八氏が「良二を残して、農業を継続せよ」と助言。
後藤氏は「農業を継続するなら、農業に必要な肥料『硫安・過リン酸石灰・塩』の購入保証のハンコを押す」と約束した。
貧しいことは恥ずかしいことではない
当時の農業は、馬そりの時代。冬の間、馬にとって、脚気にならないための大切な食べ物が燕麦(えんばく)。
良二さんは、「燕麦3俵買ってこい」と父親に言付かり、農業手形で支払うということでお金を持たずに農協へ向かう。
農協職員は荷車に燕麦を積んでくれたものの、現金を持っていないことを知ると、「お金がないなら売れない」と荷車から 燕麦を降ろした。
馬に燕麦を食べさせないと、馬は脚気になって動けなくなり、春からの農業ができなくなってしまう。泣きながら家路へと向かう良二さん。
隣に住み、そんな様子を見守っていた、正当派の馬喰(ばくろう)の杉本清松さんが、石灰(カーバイト)の一斗缶(18リットル缶)を持ってきてくれた。
納屋で、半分に切ったドラム缶2個ほどが埋められる大きさの穴を一日かけて掘り、藁を詰めてよく足で踏む。踏み詰めた藁にカーバイトを溶かしたお湯で浸す。2日程置いた藁餌を馬に食べさせると馬は脚気にならずにすみ、春には田んぼを耕すことができる。馬喰・杉本さんのお陰で、無事に春を越すことができた。こうして3町8反183枚の小さな田んぼを守り抜いていくことができた。
段差があり、手間がかかり、生産効率の上がらない大変条件の悪い田んぼ。こんな状況にありながらも「なんでこんな悪条件の農業をやらなければいけないのか」というマイナスの想いは微塵も感じることはなかったという良二さん。
当時、後藤三男八さんから言われたことは「貧しいことは恥ずかしいことではない。倒れることのほうが恥ずかしいことなのだ。助けてくれた人や保証してくれた人に迷惑をかけることになることが、恥ずかしいこと。我慢して働いて借金を返せ! 貧しいことは恥ずかしいことではない!」。
ほとんど出席せずに卒業した北竜高校時代
後藤三男八さんの配慮により設立された「北竜高等学校」に入学(冬期集中講義、農家繁忙期には休みが多い高校)。
高校2年の3月、武部良吉 校長より「出席不足のため留年」の通知が送付された。
そのことを知った後藤三男八 教育長が校長に「生徒の生き様を見ているのか! あれだけ仕事をしている姿を学校で学べることは尊いものだ。農家手伝いの出席不足による留年を生徒に課するとは何事だ!」と怒る。結果、4年まで留年することなく過ごし、卒業を迎えることができた。
ほとんど出席できず、学業を学ぶことができなかった高校時代だったけれども、誰一人文句をいったり誹謗・中傷する人はいなかった。それは「誰よりも必死に田畑で働き続けた姿を見て、みんなが理解していたからだと感じている」と語る良二さん。
高校3年の秋口、自衛隊を希望していた友人二人が泣きながら良二さんの畑に飛んで来て「自衛隊を希望したのに、学校側から推薦できないと言われた! 良ちゃんなんとかしてくれ!」と。
「それは許せない」と感じた良二さんは、働きながら学ぶ生徒として、教室の黒板に「北竜定時制高校の果たす役割・改革10か条」を書き、それに「賛同するものは明日休校せよ!」と記した。良二さんは「この10か条を学校に提出して、責任は自分ひとりで取るので心配するな!」と皆に宣言した。
休む人は、真竜小学校前の寄宿舎に集合と声をかけていた。校長・教頭・担任が、みんなが集合した2階に駆けつけた。
「黒板に書かれたことを認め、自衛隊への推薦を認めます。同盟休校となれば皆さん処罰をうけることになるので、今すぐ学校にでてくれば不問にします」と、校長先生のお言葉。
結果、自衛隊への推薦は行われることとなるも、同盟休校における処罰が課せられ、良二さんは退学処分が課せられる。
この件について、校長・教頭・担任が、良二さんが書いた「北竜定時制高校が果たす10か条」を持参して、後藤二男八教育長に報告に行った。
後藤教育長は「ばかもん! 授業日数が不足しているからと、自衛隊への推薦をしないことを訴えた黄倉良二を退学させるとは何事だ!」と激怒。
こうして良二さんは退学を免れ、高校を卒業することができた。自衛隊推薦を受けた二人は無事合格し、立派に任務を果たす。
20歳のとき消防団入団
消防団員は優秀な若者が選抜された時代。良二さんは20歳の時、推薦されて入団。
当時、消防団員の殆どがバイクか自動車を所有していたが、自転車に乗っていたのは良二さんひとり。
父親は不憫に思い、農協の後藤組合長のところに行き、「借金もあるけど、なんとか息子に50ccのバイクを与えてくれないだろうか」と相談した。次の日、後藤組合長に良二さんは呼ばれ、みんなの前で割れるような声で「ばかもん!」と怒鳴られた。
「おまえな、消防団員でバイクがほしいとは何事だ! 何故、消防団員に60人が必要なのか! おまえは意味がわかっとらん! サイレンが鳴ってすぐ駆けつける人、時間をおいて駆けつける人、一斉には出動できない! だからこそ、分団にそれぞれ30人ずつの団員を配置している。
おまえは自転車で何が恥ずかしいんだ! 一番最後でいいじゃないか! 後片付けを手伝えばいいのだ!
貧しいことを恥ずかしいと思うな! 貧しい人が、あれも欲しい、これも欲しいといって倒れていくのだ。我慢せい! 働け! 倒れることが一番恥ずかしいのだ!
俺はおまえに保証のハンコを押しとるのだ。そんな俺に迷惑をかけるのか!」とでっかい声で叱る後藤組合長。
良二さん自身は、親にそんなこと一言も言っていないとは言えず、情けないと思いながら「すみません! 私はバイクは求めません。買えるようになったときにちゃんと買います」とひたすら謝った。
「わかった! 帰れ! 働け!」と後藤組合長の声が事務所に響き渡った。
素晴らしい御縁が繋がっていく
最後に「良二、ちょっと待て!」と声をかけられた。
「良二、おまえが一生懸命頑張って働く姿を見てる人がいて、その人が必ずいつか助けてくれる。その人が、良い人に、懸命に働く良二のことを伝え、さらに良い人を紹介して、素晴らしい御縁が繋がっていく。それが仕事になるのだ!」と言われ、後藤組合長のお言葉を噛み締め、良二さんは涙しながら帰っていった。
地位と名誉と金を求めるな
後藤三男八氏は、明治31年(1898年)~昭和55年(1980年)雨竜村生まれ。北竜町農業協同組合(以下、北竜農協)5代目組合長として、昭和30年(1955年)から、6期18年間組合長を務める。
後藤三男八氏が退任される前年の昭和47年(1972年)11月2日。良二さんは後藤三男八氏から、後藤亨さん(後藤三男八氏の御子息)と共に部屋に呼ばれた。
後藤組合長は「私は来年(昭和48年・1973年)3月12日の総会で組合長を退任する。私としては中村利弘 さん(大工をしながら無借金で皆を育てた人で、農協運動に参画した文化人であり元北竜町議会議員)を出したいと思っていた。だが、農協青年部が中心となって若者を理事にという動きがある。お前が候補者となっているが、私は反対はしない。ただし、言っておく事がある。覚えておけ。
小遣いを無駄遣いするな。遊びに金を使うな。金が貯まったら、まず本を買え。必ず将来、知識は血となり肉となる。
これからの時代、やがて食べ物が無くなる。そのことを考えて、自らの農業で実践し、農協の事業計画を作れ(この時代、米余りの時代で、転作が始まっていた)。
『地位と名誉と金』を求めるな。これは大事なことだ。農協の役員をやっていると、やがてこのことに遭遇する時が訪れる。その時に毅然と対処できるようにしておけ。
自分に対する世の中の評価は、組合長を辞めてから10年後に表れる。農協とは、役員のものではない、職員のものでもない、それは組合員のものである。必ずそこに立ち返れ。何か問題が起きて迷った時、どうすることが組合員の為になるかを考えよ。そこで出た答えに従え」と話した。
後藤三男八さんは、息子の亨さんに「良二は家では酒が飲めないだろうから、1杯酒を飲ませてから帰せ」と言っていた。後藤さんの話が終わると、亨さんは必ず一合弱のコップ酒を良二さんに勧め、父親の話を噛み砕いて要約してくれた。
「親父の言うことはわかるべ。『米がなくなる』という意味は『量』ではないよね。高度経済成長が続けば、結果的に手塩をかけた農業が無くなる。化学肥料を使い農薬を使いあらゆるものを使って、大量生産で農業をやるようになる。それは『食べるもの』ではなくなってくる、ということを親父は言っているのだよ。だからこそ、良ちゃん、二人で自然農法をやろう!」と語った亨さん。
自然農法の実践・50年程で500回を超える講演会
こうした後藤三男八さんの想いが、良二さんのその後の人生を方向づける礎となり、ここから亨さんと良二さんの自然農法のチャレンジがスタートした。
当時自然農法には、岡田茂吉さんの自然農法「除草剤を使わない、農薬を使わない、化学肥料を使わない農法」と、福岡正信さんの自然農法「何も使わない、ただ種をばらまき、雑草も取らない農法」の2つがあった。二人は岡田茂吉さんの自然農法に取り組んだ。
昭和48年(1973年)から自然農法を始めたが、1年目は、1反当たり4俵程しか収穫ができなかった。慣行農法の半分程度と収量は少なかったが、稲の成長には勢いがあった。
この自然農法の田んぼでは「御田植祭」が実施され、北竜町体育協会役職員が集まり手植えの後、豊作祈願をし祝杯を交わした。
当時自然農法をスタートした良二さんの自宅前に広がる田んぼは、50年の時を超え、今も尚、息子さんご夫妻の黄倉正泰・桂子さんに大切に受け継がれている。
北竜町で自然農法を始めたという話を聞きつけて、札幌市の関係者が多数視察に訪れた。皆さんを自宅に招いて、奥様の眞佐子さんがお寿司を振る舞い、酒を交わし、農業について語り尽くした。
昭和50年(1975年)頃から世界救世教の人々の中で自然農法の講師を務めるようになった。
農業に関する講演はその後も続き、これまで48年間に亘り、現在まで、522回の講演を行なってきた。
「食べものはいのち(生命)」について語り続けている。
農協合併前の低温倉庫建設における秘話
近代化事業で補助事業を実施していた時代。業者との談合、職員の癒着について、北竜町農協・後藤三男八 組合長は一番心配していた。
平成5年(1993年)、戦後最悪の大冷害が町を襲う。平成7年(1995年)食糧管理法が53年ぶりに廃止。水田面積増加、栽培技術の向上による米出荷量の増加等に合わせ、保管米の良質な味を維持するための農業倉庫の新築が求められるようになっていた。
将来に向けての北空知農協広域合併をも考慮に入れ、米を保管・管理する低温倉庫建設への取り組みも進められてきた。一番の課題は、合併までに米が15万俵入る低温倉庫2棟の建設だった。
当時、北竜農協の資金繰りは苦しく、倉庫建設のために、組合員にさらなる負担を強いることはできない状況。黄倉組合長は、全力を尽くして建設費用を低く見積もることを決意した。
そして1棟目の倉庫建設時、入札8社(北空知7社・稚内市の石塚建設興行)が参加。
ホクレンなどを交え、入札前に打ち合わせが行われた時、黄倉組合長は、建設業社への建設予定価格の58%を打診。すると参加者から「常識はずれだ」と罵倒される。黄倉組合長は「組合員にはこれ以上負担はかけられないので、58%が限界の数字だ」と主張した。
黄倉組合長は続けて「現在、北竜農協は大変厳しい状況下にあります。しかし、今回決して無茶な要求をしているわけではありません。浜松市で建設業を営む兄に設計を頼み、建設費見積もりを依頼したところ、出てきた数字は50%。北海道仕様であれば、53%で十分利益がでるとの回答でした。金がないから安くしろと言ったわけではありません。私は、皆様にとって、利益の出る適正価格を裏付けとして持っているからです」と黄倉組合長。
最終結果、最低入札価格を提示した石塚建設興行が残り、相談後「53.8%でやらせてください」と宣言し決定。
2棟目の低温倉庫建設時は、西出建設札幌支店が加わり、58.2%で受けることを申し出て決定となった。
生協と北竜農協との北海道米消費運動の開始
昭和50年代の後半から「コープさっぽろ(さっぽろ市民生協)」と北竜農協との米の提携「北海道米消費拡大運動」がスタート。
その中で、黄倉組合長は、協同組合の基本は「産消提携生命の絆・消産提携生命の架け橋(生命の絆と生命の架け橋を生産する人と消費者が深めていくことが協同組合の基本)」であると主張した。
「コープさっぽろ」と北竜農協との米の産地交流を積極的に実施するにあたり「コープさっぽろ」の組合員の方々をバスで北竜町に招待した。
まず、生命の源となる水源の恵岱別ダムを見学し、田んぼの水、米とメロンの田畑を見ていただき、晩には青年部・女性部との懇親会を開催した。
視察におけるアンケート調査で一番多かったコメントが「安全な食料生産を希望」だった。
北竜農協・青年部女性部が安全な食糧の生産に立ち上がる
そこで北竜農協青年部の若者たちが立ち上がり、除草剤を使わない安全な食糧生産に挑戦する運動に取り組むこととなった。
昭和63年(1988年)、農協女性部・青年部のメンバーが、当時全国で開催されていた米価要求大会に参加せず、「安全な食糧生産に関する北竜町農民集会」を開催することを提案。
青年部の若者たちは、米価要求よりも、消費者との交流の中で「安全な食糧を生産してください」という消費者の要望に応えるための集会をやりたいという若者たちの想いは、歴史に残るような提案であった。
黄倉組合長は「もし集会で反対者がでたら、私が提案が持つ大きな意味を説明するから心配するな!」と声をかけた。
集会では、青年部の青年が第一提案を読み上げたところ、一人の組合員(83歳)が「おお、おまえらやってみれ! おれが応援してやるから」と賛成の声をあげた。
提案は、満場一致の賛成で決議された。その実践活動として10%の減農薬栽培を実践することになった。
平成元年(1989年)、有機減農薬米「きらら397」が、ブランド米「ひまわりライス」として全道販売となる。
町が一丸となって「国民の生命と健康を守る安全な食糧生産の町」を宣言
平成2年(1990年)、北竜農協が先頭に立ち、「食べものはいのち(生命)」の思いを大切に、家族が力を合わせ、手と技術とこころ(魂)を尽くし、「生命・食糧・環境・暮らしを守り育む」ことを第一義とした。
平成2年(1990年)10月26日、北竜町農業委員会(澤田隆司 会長)が「北竜町農業委員会憲章・土と自然と緑を育み、そして豊かな水を確保し、わが郷土に夢と希望のもてる生産性の高い(人間の安全な食糧を生産する)農業の育成に務める」を宣言。
平成2年(1990年)11月22日、北竜町土地改良区(南波彰 理事長)が総代会にて、「『豊かな環境、稔の農村』と題して、自然と緑を育み、そしてきれいな水を確保し、安全な食糧生産に務める」と決議。
平成2年(1990年)12月16日、北竜町・森正一 町長が町長提案を町議会に提案。「北竜町は国民の生命と健康を守る安全な食糧生産宣言の町」となる。
北竜町は、町全体が一丸となって「国民の生命と健康を守る安全な食糧生産の町」を宣言した。
ひまわり農協と姉妹提携
愛知県豊川市を中心とした5農協が平成元年(1989年)に合併し、農協名を「ひまわり」と命名。北竜町との交流を深めた。平成3年(1991年)8月5日午後二時、ひまわり畑に会場を設け、ひまわり農協全役員、豊川市長、350年の伝統ある豊川手筒花火師を含め総勢90名が来町。
北竜町・山本町長を含め各団長、組合長、農協全役職員で、厳かに姉妹提携調印式を決行。荘厳な手筒花火で、調印式を祝う。以後、意義ある交流が続いている。
米の闇取引
米が配給制度だった時代、平成5年(1993年)頃、北竜農協が闇米取引をしたと札幌農政事務所が動いた。
当時北竜農協は、米が足りなくて困窮している取引相手に、北竜の価値を認めてくれる価格で闇取引を行っていた。
平成6年(1994年)札幌農政事務所から北竜農協・黄倉組合長に呼び出しが来る。
事務所では、税務調査が証拠書類を出してきた。書類には北竜農協との取引先の名前が並ぶ。「米がなくて閉店が危ぶまれる状態なので、何俵でもいいから分けてくれ」と、泣きながらお願いされた取引先だった。
税務調査の書類を出された以上は、何も言えず、両手をついて謝る黄倉組合長。長時間叱責された後「次回は処分するから、今日は帰れ!」と叩き出される。
後日、札幌農政事務所・大住 所長の所長室に出頭。机の上には、米の集荷免許停止の書類、金融停止の書類が並べられていた。
大住所長、「これは困ったなぁ、日本では初めての今までにない処分になるぞ」。
黄倉組合長、「どんな処分になろうと私がすべての責任をとって辞任します」。
大住所長、「辞めて済むことではないぞ。私がこのハンコを押せば、北竜町では今年の米の集荷はできなくなる。また、金融停止のハンコを押したら、北竜農協の金融はストップする。どうなるかわかるか! 北竜農協は解散せざるを得なくなるぞ!」。
事の重大さに頭が真っ白になる黄倉組合長。しばらくじっと考え込んでいた大住所長は、こう口を開いた。
「おまえもよくやったけど、取引相手は困っていたところばかりだよな。特に國稀酒造は、この米がなければ、醸造所を閉鎖しなければならない状態だったかもしれない。こうした状態を防ぎ、醸造を繋げてくれたことは高く評価される。
おまえのところが特別儲けたわけではないべ。これからの農協は、実はこういうことが必要だ。農協にはこうした改革が必要になるんだよな」。どうしたものかと、頭を抱えた大住所長。
大住所長は考えた挙げ句、「やめた!」と一言。
その言葉を耳にした時、黄倉組合長は涙が溢れて止まらず、その場で男泣き!
「どうしてこんなことを考えたのか」と聞かれた黄倉組合長。
気を取り直し「協同組合同士として生協との取引を大事にしながら、『生協の生活を守る運動』と『農協の生命を守る運動』を結合したいと思ってきました。そう考えていたので、闇取引ですが、困っている人々に米を分けることが大切だと思い取引しました」と答えた黄倉組合長。
「そうだよな、あなたはまだ若いけど、こうしたことを大事にすることは必要なんだぞ。これは私の責任で解決できるから、処分はしない!」という大住所長の有り難いお言葉をいただく。
感極まる黄倉組合長。北竜農業組合は救われた。
その後、大住所長は広島県の事務所へ赴任された。
PHP研究所主催のシンポジウム「コメと日本人と伊勢神宮」に登壇
平成8年(1996年)、PHP研究所(東京都)主催のシンポジウム「コメと日本人と伊勢神宮」が伊勢神宮にて開催された。全国各地から集う農業関係者・来賓として北竜農協・黄倉 組合長が登壇。上ノ郷利昭さん(日本ジャーナリスト、ノンフィクション作家)が司会を務める。
前夜祭に「三波春夫の講話」があり、三波氏は「日本人と神、日本の米、そして伊勢神宮」についての話を羽織袴で朗々と見事に淀みなく語った。伊勢神宮の価値が、心に伝わる感動的なお話の数々に、良二さんは感動!
お弁当・お惣菜(株)マコト(東京都)と黄倉組合長との出会い
羽田空港で人気の「空弁」を販売している(株)マコト(東京都)の山崎峰子社長は、平成12年(2000年)以前、美味しい米を探していた。
山崎社長は、知人に北海道の美味しいお米として北竜町「ひまわりライス」を紹介され、北竜町を訪問し、北竜農協・黄倉組合長に出会う。
最初の訪問で、冬の2月に北竜町に向かった山崎社長。当時の北竜町農協・藤崎正雄 課長が、雪の中をJR滝川駅まで車で迎えに来てくれたことに感激した。
北竜町農協に到着し、事務所で目に飛び込んできたのが、掲げられていた「食べものはいのち(生命)」のメッセージ。マコトの社訓「食は命」と北竜町農協の目指すところが同じであることを実感した。
そして、トイレを拝借された山崎社長は、トイレの中の張り紙の言葉「爽やかなトイレ 来た時よりも美しく」と実際のトイレの清潔さに、北竜町農協がマコトと同じスピリットであることを確信した。
山崎社長は、取引先候補の真の姿を知りたいとき、トイレを拝借することを常としている。「北竜農協のトイレの清潔さに感動したので、組合長と是非お話させてください」と農協職員に依頼された山崎社長。黄倉組合長は即座に快諾。
山崎社長は「現在取引しているところは、米がまばらで味が不安定になるという問題を抱えています。そこで北竜農協での管理状況や施設を拝見させてください」と懇願。組合長は要望に応え、中原米穀店(北竜町碧水)へとすぐに案内。
中原米穀店では、徹底した研精(とうせい)管理がされ、工場が清潔に整備されていた。
研精現場を確認し、納得した山崎社長は、その場で北竜農協との取引を決めた。こうして北竜町農協との取引が開始された。
現在も、幾多の困難を乗り越えながら、広域農協合併後の「きたそらち農業協同組合北竜支所」との取引が続けられている。
広域合併によりきたそらち農業協同組合設立(平成12年・2000年)
平成12年(2000年)、北空知の8つの農協合併により「きたそらち農業協同組合」が誕生した。
合併前は、平成4年(1992年)に金融制度改革法が成立・施行され、自己資本比率8%が導入された時代。
良二さんは、北竜農協が生産力があっても、金融面が弱く組織を維持できなくなることが想定できると考えていた。また、良二さんの決算書解読の師である北竜町出身の源孝さんより、合併を考える時期だとアドバイスも受けていた。源さんは、ホンダウイルの代表取締役を務められ、本田宗一郎氏と親交のあった経営のスペシャリスト。
合併については、平成4年(1992年)に合併問題協議会を設立。「将来、単独農協では世の中に対応できない時代がくる。北空知の農協が力を合わせれば、大きな資金力と生産力を持てるので、合併を考えたい」と良二さんは主張した。
「農協の合併は、組合員を守るための資金強化に必要なことだった、後悔はしていない」と語る良二さん。
協同組合運動の原点「いのち(生命)・食糧・環境、そして暮らしを守り育む」ことが基本
良二さんは、最後に次のように語った。
「今、世界では戦争がおき、混乱した時代を迎えている。物・資源・心も欠乏している。心を豊かにできるのは、協同組合運動しか無い。これから、協同組合運動は世界を救うことになる。
北竜町の先人達は、原野に入植し木を切り、食べものを生産し、そして産業組合を作った。北竜の村では、生命を守り育むために一生懸命力をあわせ、次に食糧を守り育むために力を合わせた。それらの環境を守る努力をしてきた。
『いのち(生命)・食糧・環境』そして『暮らしを守り育む』ことは農協運動の原点。地球上の全てのことにあてはまる。
協同組合運動が世界で必要なのは、
『生命を守り育むために何をするか』
『食糧を守り育むために何をするか』
『環境を守り育むために何をするか』
『暮らしを守り育むために何が必要か』
ということに目を向けることが、人類が生きるための基本であるからだ」と。
あとがき
寺内ご夫妻より、3月25日(土)の北竜町 名誉町民 祝賀会にて「今日までの 黄倉さんの人生を冊子でご紹介させていただけませんか」との提案をいただき、3月9日(木)午後、寺内さん宅で四時間半、話をさせていただきました。
黄倉家は、昭和元年(1926年)新十津川村上徳富シユブンナイ(通称:万の沢(ばんのさわ))、雨竜町から増毛方面に20km山奥に入る所から、北政清 翁、後藤三男八 翁の お世話になり、板谷農場の小作となり、現在の地に入植しました。
12人の大家族で赤貧の極地から今日まで、多くの人々の助けを受け生きてきました。
今日の私があるのは、後藤三男八 翁と息子さんの亨さんの教えと援助があってのことと、御恩を忘れた日はありません。何周も遅れていますが、これからも、後藤三男八 翁・亨さんの生き様を追いかけ続けます。
寺内さんご夫妻が本冊子を丁寧にまとめてくださったことに、心から感謝申し上げます。
黄倉 良二
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黄倉良二「食べものはいのち(生命)」
2023年3月25日 初版第1刷、3月31日 第2版
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著 者 黄倉良二
発行者 北竜町集落支援員・寺内昇 & 郁子
参考記事 北竜町ポータル
祝!黄倉良二氏 北竜町名誉町民!
北竜町議場にて推戴式が執り行われました
小冊子・黄倉良二氏『食べものはいのち(いのち)』(A4版26ページ)
PDF版(70MB)
画像(JPG)版
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◇ Nhiếp ảnh/biên tập: Noboru Terauchi Phỏng vấn/văn bản: Ikuko Terauchi